2017 . 1 . 4

美容医療の神髄-歴史秘話第72話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その48”「相模原市から隣の大和市へ編2:美容形成外科学」

14・15年次には大和徳洲会病院形成外科部長として、一応北里大学形成外科医局在籍の形で出向していました。そこでの話題として、臨床研修制度への方針作りを手伝いました。また臨床面では他科の医師とのコラボもしてみて楽しかったし、違う出自の医師との交流は医師としての人生を豊かにしてくれました。

ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。この辺りの話しは次回以降にします。

大和徳洲会での診療行為は医療講演で集めた眼瞼形成術の手術が主体ではありましたが、外傷も少なくはありませんでした。他に他科との合同手術も何例か施行しました。これまでの関連病院への出向は、7年次に茅ヶ崎徳洲会へ赴任した際は当初は一人でしたが、診療実績を上げて2年めはレジデントを出向してもらえました。当時も今も日本形成外科学会認定の専門医の申請資格は、大学棟の認定施設の関連施設は症例数に閾があります。クリアーしないと研修医(レジデント)が出向しても研修年次に数えられないので、二人体制にする為には手術総症例数とカテゴリー別の症例数を稼がなければなりません。茅ヶ崎では私が学会認定関連病院に昇格させましたが、大和では難しそうでした。病院の規模が2/3床程度で来院患者数も少なく、そこへ形成外科を始めて開設した所で症例数を満たす事は出来ないと予想したからです。それに上に書きました様に眼瞼形成術が多くなりましたので、他のカテゴリーが満たされないとも考えました。大和徳洲会での2年間は形成外科一人体制で診療する事となりました。

眼瞼形成術は医師一人で可能です。顔面骨折も看護婦さんを助手にすれば可能です。小範囲のやけどに対する植皮術も、ほくろ等の手術も医師一人で可能です。でも助手が医師でないと出来ない手術はいくつかあります。勿論広範囲のやけどの手術や、顔面多発骨折の手術や、切断指再接着は形成外科医が二人体制でなければ難しいのですが、関連領域の他科の医師を助手にすれば出来る形成外科領域の手術があります。ところで、大和徳洲会は北里大学から近いため大学医局から、後輩が出向していました。耳鼻科と眼科に、4年したの医師が居ました。しかも幸いな事にこの年代は、その前年に大学で一緒に研究していたY先生の同学年で気心も知れていました。

茅ヶ崎徳洲会では外科グループと近づき、何例か合同手術をしましたが、大和徳洲会の外科グループは医師が少なく手が回らないので、コラボレーションが出来ませんでした。しかし逆に病院の規模が小さいと医師が親しく接するし、後輩も居て引き込んでくれたので常々打ち解けた各科の部長クラスが出来ました。

例えば、副院長で産婦人科のN部長とは、診療上は合同する事は無かったのですが、医師研修制度に向けた病院内での対応の為の整備としての研修委員会では正副委員長として手を携えて仕事をしました。この件については後段で。

外科の部長は一人が徳洲会育ちで、茅ヶ崎では研修医として可愛がった(いじめでは無く厳しく指導した。)医師ですが、その為か「遠慮するなよ何でも引き受けるよ!」と言っても、余り患者を廻して来ませんでした。外科にはもう一人、同学年の女医のM部長がいました。二人が住み分けしていたのですが、そのM部長は出自が地方病院で配偶者が役人であったために三年前に大和に流れて来たそうです。言ってみれば外様同士ですから、ある意味で外から徳洲会を見れる二人は外様の多い院内の医局の人間関係に於いても中心化していました。研修委員会での仕事は発展して、院内での人脈形成から更に、人事への動きにまで発展しました。私は二年めに副院長就任を打診されるのでした。まとまりが無くなるので、病院運営の話しは研修委員会の話しに続けることとして、合同手術の話しに戻します。

M部長は徳洲会育ちには無いレパートリーを持っていました。乳房はその一つでした。ある時遂に外科部長の女医から再建の依頼が来ました。女医ならではの観点です。しかし本当はしたかったのですが、いきなりTRAM(腹直筋皮弁)や当時はやり始めたDIEP(深下腹壁動脈穿通枝皮弁)をするには人員が足りません。そこで当時から乳房温存手術が行なわれていて皮膚が足りていたので、インプラントも選択肢の一つに挙げられました。とはいっても皮膚を伸ばす必要があったので、組織拡張器;Tissue Expander, T.E.を使用する事となりました。M部長に取っては初めての再建手術だったそうです。それもインプラント等は美容整形の為だけだと思っていたそうです。手術計画から、計測、医療材料の発注まで私が手回しよく決めていって、患者さんに説明していき、手術は私が外科のM女医部長を助手として、第二第三助手に徳洲会の研修医を付けて仰々しく手術しました。

術後は組織拡張器に注入して皮膚を伸ばしていき、左右のサイズが揃った所で永久インプラントに入れ替える筈にしていましたが、患者さんが面倒がってそのままにしました。その後T.E.は1年間程度は診ていましたが、縮小はしませんでした。挿入物はシリコンの膜と生理食塩水ですから安全ですが、本来は永久的に挿入する事の保障はされていません。仕方ないですが、M部長に経過観察を任せて置くしかありません。まあM部長にも患者さんにも悦ばれましたし、周りの医者達にも感激されました。田舎の徳洲会でこんなに面白い事経験する機会はないものね。

外科部長の女医Mとは、他にも合同手術をしました。よく覚えていないのですが、論文検索する事ができるので、出してみました。Polypropylene-e-PTFE composite meshによる胸壁再建を行った胸壁原発悪性線維性組織球症の1例、なぜかまた、人工物での組織修復となりましたが、どうも外科医は形成美容外科医は異物の類いを熟知していると思い込んでいる様です。形成外科医は逆に自家組織での修復を心がけて来ましたから、その時も私は大胸筋筋弁での修復を計画したのですが、充填するべき容積に到らないため人工物をしようする事になったのです。内容は覚えていないのですがその間の議論は面白かったし、女医のM部長と逆に、お互いリスペクトできる間柄になりました。だから論文を書く際に私もクレジットしてくれたし、数年後も連絡を取ることができる関係になりました。

外科医とのコラボレーションはそれまでの病院でも少なからずあったのですが、それまであまり耳鼻科や口腔外科とは接点が無かったのです。一回ここで止めて次回継いで書きます。