私が医師として14〜15年次に出向した大和徳洲会病院形成外科・美容外科部長時代の医療経験談は前回で一度止めました。
ところで、医療制度の根幹を為す研修制度は2004年に施行されますが、準備段階としてこの年に大和徳洲会病院に出向した際に院内臨床研修委員会が発足しました。何故か私が副委員長に任命されました。これまでは、臨床研修は国家的規模の制度が整備されていませんでした。いつものことですが、本邦の政治の官僚的特徴です。厚生省と文部省の縦割り行政も一因でしょう。例えば北里大学病院では研修医として1〜2年次を雇っていましたが、卒後研修はまず各科に所属して、他科へのローテーションはか各科のプログラムに任せていました。私が回ったのは一般外科と整形外科と麻酔科と救急救命科でした。内科系は回っていません。これはこれで、専門科の診療に役立つ知識を得る為には時間的制約もあり致し方ないと考えていました。敢えて言えば、実は大学での採用枠は限りがあり、関連病院に回らなければならないのですが、形成外科の関連病院は多い訳ではないので他科へのローテーションで仕事を与えていたのでもあると思いました。北里等はまだいい方で旧設大学病院はローテーションする病院さえも無く研修医制度も無く、3年目から無給助手としてバイトで生活している医局員も居ました。
医療制度が悪いのか、医師会が専制だからか、それとも戦後の医療制度を作ったのはGHQですからUSAがテキトーに助言したからか判りませんが、日本の医療制度は中途半端でした。国民皆保険制は高度成長期の産物で、東西冷戦時代に社会主義国に負けない様に福祉を充実させただけです。したがって医療機関は増加してフリーアクセスとなり、医師も増やしましたが、バブル破裂後は医師が過剰というか偏在して、医療の質の低下が叫ばれてきたのです。元はといえば、医師の卒後教育のクオリティーを確保してこなかったからです。政治は国民の為でなく、それぞれの利益団体のムラ社会の調整に過ぎないからでした。医療は国民の福祉の為にあり、その道具として国民皆保険制度がある筈です。でも医療だから必要な、医療の提供者側のクオリティーを担保する制度は不備でした。例えば建築物や自動車や食物と同等以上に質的な閾を設けるべきです。
そこでやっと、国家的に医師の臨床研修制度が整い施行されたのは平成16年でした。私が大和徳洲会病院形成外科・美容外科部長として奉職していたのは医師となって14〜15年次でしたが、平成13年には1年後に病院が指定を受けるための準備段階として院内に研修委員会が発足しました。実際には結果的に1年先送りされたのです。
もう一度簡単に制度を説明しますと、全国的に医学部を卒業して、医師国家試験を受ける6年次には進路を決める要するに就活をする様にします。それまでは、自分で決めていて、多くが(90%以上)出身大学の病院に就職していました。大学病院によっては積極的に研修医を教育する為に雇用しようとしていましたが、それは安い労働力としてでもありました。それどころか特に旧設大学の中には、所属はさせるが雇用しないで、アルバイトで喰えという大学病院医局さえも多くありました。当時無給で働かせていた医師が過労死してこの問題が発覚しました。
つまり臨床研修医制度は三つの面があります。国民の為の医療の質の向上の為に卒後初期の医師の研修に対して国家が経費を出す。卒直後の医師を雇用して研修に専念させる。病院側には国から研修費の補助金が出る。しかも専従勤務が義務付けられる。こうしてみると三方一両得みたいな理想的な制度に感じられます。ただし、病院は指定を受けなければなりません。そして病院と医師が就職活動みたいに面接してマッチングして決めるのです。
徳洲会グループは本来大学病院の医局制(制度では無い集団)から離れて、卒業大学や有名大学の病院に就職しない医師と大学医局でアウトサイダーになった医師、つまりあぶれた医師が就職してきました。特に新人は大学で研修していないので、徳洲会グループで研修する事になりました。さらにUSAの医療制度は研修システムがコース立てで整備されていますから、参考にしています。当時テレビでERという番組が流れていましたが、あれに近い形です。よく救急部長が「ER!」と叫んでいました。とにかく既に、徳洲会には若い医師を卒後教育するコースが出来上がっていました。今更国家的に臨床研修制度が発足してもコースは似ていますから、流用出来ます。ただし病院の規模や教育の為の最低限の資本をクリアーしないと指定されません。
大和徳洲会病院は湘南地方三病院グループの中では最小の病院で、研修医も回ってくる程度でした。病院の規模は確か当時は最低200床で、足りていましたが指定要件ギリギリでした。逆にいえば、この規模の病院にとっては重荷です。施設は20年近くでやや古く、一部はプレハブでつぎはぎしていましたし、医局もプレハブでした。指定要項には教育の為の指導医の充足と、蔵書の充実が求められていました。そこで、ここから始める事になりました。ところで病院では毎月部長会議を開催していましたが、そこで突然私が研修委員会副院長に指名されました。委員長は産婦人科いの副院長でした。何故かと考えてみたら、徳洲会育ちでは学位は取れませんから。教育者に匹敵する医学博士号を持つ専門医が少なかったからでしょう。
まずは指導医となる各診療科目の学会専門医をリストアップしました。内科外科産婦人科小児科の所謂メージャー科には医師が揃っていました。形成外科を始めとするマイナー科目の診療科目は揃っていますが、病理と放射線科が足りませんでした。アルバイトでもいい様なのでその中の専門医の医師に登録してもらう根回しをしました。何とか揃ったのですが、今度はそれぞれの科目が教科書を備えていなければなりません。それまで教育に力を入れてこなかったので足りません。仕様がないから、各科の医師に寄付してもらう事にしました。個人持ちの蔵書を一時的に、臨床研修指定病院の監査の際に揃っていれば通るという策です。私も10冊以上(一時)寄付をしました。そして本の背に病院名と通し番号と科目名を書いたラベルを貼って、図書館(これもプレハブ)に並べるのです。四畳半のくらいの部屋の四面に本棚を並べて各科の医師から寄付してもらった図書でぎっしり埋めました。いやあゼロに等しい蔵書数からよくここまで`格好`が付いたものだと、我ながら感心したものです。こうして研修委員会の準備は着々と整いつつありました。しかし、指定病院が多くその順位からすると、二人しか募集出来ない様でした。制度化の前年には過渡期として、マッチングだけが行なわれましたが、実際は一人しか応募がなかった様です。その時にはガクッときました。その後大和徳洲会病院は改修して増築したようですが、研修医の募集が増えたという評判は聴きません。
こうして、研修医委員会に於いて、人事面で貢献?していた頃に、明確には書けないのですが、院長の交代というやはり人事問題に巻き込まれました。副院長を打診されました。迷いましたが私の人生にとって、平成13年は今から16年前のターニングポイントでした。簡略には記せない話しですが、この後の私の行く末と対比しながら次回書きます。その後は話しを進めます。
当時は北里大学形成外科美容外科医局からの出向の状況でした。だから、権威的にに大学でなければできない様なレベルアップの仕上げを要請されました。医学博士の審査を受けて合格し、美容外科学会専門医の取得に取り組みます。
ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。美容外科界の話しはその辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。それが私の進路としての話しです。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。この辺りの話しも次回以降にします。