2017 . 3 . 24

美容医療の神髄-歴史秘話第84話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その59”「銀座から地方都市へ1:美容形成外科学医」

私は、医師歴15年で大学医局を辞して雇われ院長として開業するのは、平成14年は2002年です。その後経営者のK氏とは深く関わっていくことになります。そして私の周囲の医師も巻き込んでいきます。

K氏とは深い付き合いになりますが、何しろ医師ではなく、かといってコムロで美容外科の診療には携わっていて、素人では無い。下手な医療関係者よりも美容外科の内容に付いての知識が広く、時には深かったので使えました。あくまでも医学的知識ではなく、美容外科というか非形成外科の美容整形のビジネス手腕です。反面、経営手腕はまあまあでも、金の使い方が汚い。その意味でも美容整形屋の端くれというか、整形ゴロの一人ですが、かなり一流のゴロでした。

用語の説明をしますと、整形ゴロというのは父から教えられた概念で、会社ゴロ等と類似です。「美容整形には周りに人ががたかって来るんだ。日銭があるからな。」「ゴロツキといっても、そのスジから、金目当ての奴まで来る。患者のふりをして最初から狙うのは当たり屋だが、その筋の奴は終わりがない。」「昔の美容整形屋は結構危ない目に遇ったもんだ。俺と同じ頃に始めた鴛海先生なんかは、ヤクザのすけに豊胸して因縁着けられてたかられ続けて、しまいには自殺したんだ。可哀想だったが、手術したのは当時アルバイトしていたH.Isだ。(注:当時テレビで毎週出ていたOhTs.美容外科の開設者)」昔の話しが始まると止まらないのは高齢者の特徴で、話しが飛びまくるのでした。そうです。当時父は既に75歳でした。

ゴロツキは、ゴロゴロ下を転がるものがつきまとうからでしょう。下というのは下層という意味ですが、場合によってはゴロゴロ多勢でやって来て示威行為をするからでもあります。場合によってはチャカチャカいわせてきます。その場面も経験しました。もっとも野球のゴロは、下を転がるのですが、米語でGrounder;グラウンドを行くというのが原語で、訛ってゴロとなったという説もあります。14年前のその頃、巨人からNYヤンキーズに行った松井秀喜選手が当初打てなくて、Grounder  king と呼ばれていたのを日本ではゴロキングと訳していました。その彼は風体に似合わずゴロツキでは無く、とても人がいいとの評判でした。その頃父との世間話しでも話題になりました。ところでその父は野球が大好きでした。慶応大学時代に野球部のエースだったと自慢し(医学部内の草野球部らしい。)私が小学生時には、毎日曜日にキャッチボールをしてくれました。結構厳しく当時私も毎週見ていた劇画`巨人の星`の父ちゃんみたいでした。でも上手くボールが取れたら誉めてくれる父は優しく、一緒に居ると楽しかったのです。ある時一緒に居なくなるのは後で説明します。話しが跳びました。

とにかく、今は亡きK氏は整形ゴロの典型だったのでしょう。コムロの宮崎院の事務長だったのは、どこで繫がったかは知りませんが同郷だからでした。東京院には滅多に来院しなかったのですが、コムロではバイト医師が地方に出張する事も多かったし、定期的に(3ヶ月に一回だったか)全院の医師がカンファレンスしたり、情報交換したりしていたので、面識はありました。しかも、宮崎院は常勤医が居ないで、日常はK氏が電話対応や来院者の対応をしていたので、医療の場面を(あくまでも応対)取り仕切っていたから、美容整形っぽい美容外科医療のコツは身に着けていたのです。

先に書いた様に今は亡きK氏というは2010年頃に亡くなったからです。やはりゴロツキだから、その筋の人に関わり、金の問題でチャカも取り出し、最後は消されたと考えられいます。

このようにかいつまんでエピソードを書き連ねるときりがないのですが、この後は大分院とグループの地方院でのアルバイトから、平成14年からの開設管理者としての美容居外科院の運営が始まります。その運営形態はある意味特殊です。その説明が続きます。