16年次に美容外科クリニックを請け負いました。A美容外科グループといいます。主宰者のK氏は、本来美容外科院の事務を執っていましたが、一般男性と違って診療内容に興味を持ち、徐々に勉強していきました。学んでいきました。勉強というのは一から始めて積み重ねていかなくては理解できません。学生の勉強でも、一度つまづくと派生する知識が理解出来ないため進みませんよね。狭い領域である美容外科医療の知識でも深くしなければ仕事になりませんし、個々の症例に対処出来ません。要は経験がものを言います。座学での知識がないと新しい知識は吸収出来ませんが、それは専門用語の問題です。Technical Term といい、専門用語の特に洋語は医学知識には欠かせません。それがないと最先端の医学を学べないのです。しかし臨床医療に於いては、その都度の医療行為を見て、しかも美容医療に於いては経過も結果も見えるので、医学知識が無くても医療行為の知識は学べます。知識は身に着かなくても、知恵は身に着けられます。
こうして、美容外科診療に於いては臨床的な方法論だけを身につけた者でも携われます。こうして、今は亡きK氏は、宮崎でクリニックを開設しそれまでの人脈を使って医師を募り、主に東京と大阪の医師を飛行機で呼び診療を始めました。私は14年次に月一回程度数回行きました。あまり患者は来ていなかったし、常時医師が診療しているのではないので、大きな手術はできませんでした。
その翌年:2001年は私が15年次です。彼は大分院を居抜きで借りました。従来はE先生が開設したクリニックです。E先生はこの世界では大御所、日本美容外科学会;JSAPSの重鎮です。大分県の出身で、姓の通り九州の名門家です。東京駅八重洲口のすぐ前に30年近く開業しています。出自としてはそんなに昔ですから、元は耳鼻科医だったようですが、警察病院の形成外科に入局して美容形成外科を研鑽したということです。話が跳びますが、日本の形成外科・美容外科の歴史とその名kでの警察病院の役割について、前にも説明したと思いますがもう一度説明します。
日本の形成外科・美容外科の萌芽は先の大戦後ですが、戦前にも、耳鼻科で隆鼻術、眼科で重瞼術をする医師が数人はいました。大学病院の教授さえも名を連ねていました。確かに専門分野ですから部位を特化すれば下手ではなかったようです。文献にもあります。でも、これらの診療はあくまでも片手間だったし、本流ではなかったし、もちろん戦時中はそれどころじゃなかったので、継承者は途絶えました。
戦後にGHQが進駐した際に本邦の国立病院を接収して米軍病院を林立させましたが、戦傷外科である形成外科医もUSAからわざわざ動員されました。日本では現在美容外科と形成外科は別の標榜科目です。日本は国民皆保険制ですから、保険診療科の形成外科と自由(自費)診療の美容外科で分けているからです。欧米では形成外科医は美容外科診療をするのが当然で、特にUSAでは、どっちにしても自費診療ですし、医療保険には個人ではいるのですが、掛け金によっては美容医療も受けられるのですが、形成外科の認定医(ボード)でなければ保険金が下りない仕組みです。
戦後GHQに動員された形成外科医のうちの多くは、美容外科診療もできます。実は当時日本でも細々と美容外科診療をしていた開業医はいました。代表的なのが十仁病院と内田眼科です。私は13年生時に医学博士研究をしていた際に眼瞼に関する何百通もの論文を検索したのですが、芋づる式に出てくる論文の中に、もっともポピュラーな口唇裂の手術法を発表した世界でも有数の形成外科医が、十仁病院を訪問して視察して診療方法を調べ、まずいところを指導修正したという内容の論文が出てきました。他にも米軍病院に指導に来た形成外科医が書いた、日本の美容整形の実情を揶揄するような論文もありました。昭和20年代は敗戦国は貧しく、医療水準も低下していたし、贅沢医療である美容整形は国民にとって手の届かない医療だったのでした。もっともその頃、GHQの将兵は日本人女性と遊び食わせる。パンパンはそれで喰う。だからアメリカ人(白人と黒人)にモテる為にバタ臭い顔つきに変えたい女性も居て美容整形は密かに盛んになり始めました。そりゃあそうです。暗い顔した日本人は相手にされないのです。その後日本をUSAを始めとした西側陣営に組み込むために、国際的要請として日本の経済力を向上させたので、昭和30年代には余裕が生まれました。
既に進駐軍に学び形成外科医療に触れていた医療機関はいくつかありました。たぶんですが、九州では形成外科を開設したのは長崎大学が最古なのですが、それは原爆を落とした後の戦傷医療と、医学的研究のためにGHQが形成外科医を派遣したからだと考えられます。原爆は初めて使われたので被災民がどのような人体の影響を受けるかは不明だったため、要するに人体実験だったと考えられるからです。また警察病院はその性格上、当然外傷外科である形成外科医療の輸入に関与していたものと考えられます。昭和31年に東大病院で整形外科内に形成外科診療班が設立されましたが、それまでに何人かの医師が留学したからです。当時に日本は貧しかったので、フルブライトやロックフェラーでの奨学金を受けての留学しかなかった(そもそも渡航制限があった。)のですが、高い学業成績を要するため、東大卒者が多かったのです。例を挙げると、北里大学医学部形成外科の初代教授であるN.S.先生は典型です。彼は東大を昭和30年に卒業し、米軍病院(奇遇ですが北里大学医学部のそばで、私の学生時代はまだ建物があった。)でインターンをしたのち、フルブライト留学生としてUSAのオルバニー大学病院で研修します。一般外科2年と形成外科6年の研修をしたそうです。後年(私の入局後だから、昭和60年代)チーフレジデントまで務めたのは日本人では唯一だと自慢していました。ただし彼は東大形成外科医局には4年間だけ在籍してその後、横浜市立大学を経て昭和45年の北里大学開設時に形成外科教授として赴任しました。この間に警察病院形成外科部長Om.部長との子弟関係も紡いでいったようです。
警察病院は実は民間病院ですし、国からみですから潤沢な資材資金があり、主に東大から優秀な医師が出向します。戦後すぐにOm.先生が皮膚科内で形成外科診療を開設します。大学病院ではないので自由なのです。当然GHQも関与していたはずです。昭和30年に東大で形成外科を開設する際にも、Om.先生は参画していますが、旗を振ったのが整形外科の重鎮であったM教授だったので、Om.先生は警察病院経営外科部長になりました。昭和30年代から、形成外科医をたくさん育てました。そこではUSAから持ち帰りの美容外科も診療されました。警察病院出身に有らずば形成外科と名乗れない雰囲気さえもありました。
しかし上にも述べたように巷間では美容整形の病医院が林立していきました。父の記憶では昭和30年には山の手線の各駅にクリニックがあったそうです。つまり都内に30軒以上です。巷間の美容整形医は形成外科出身ではないのは毎回申して来ましたが、しかも警察病院形成外科が美容整形の非形成外科医を貶めてきて反目し、結局資力と政治力でで美容整形側が巻き返して、昭和53年の標榜獲得後二つの日本美容外科学会が併存することになってしまった残念な話題はこれまでに何度も記載してきました。でも、その残念な結果の一端は警察病院そのものにあったのです。彼ら警察病院形成外科出身の美容外科開業医は徒党を組んで非形成外科の元美容整形医出の美容外科医と対立してきました。
だから学会活動も別々でしたし、美容整形側は十仁を中心とした学会はあれど、参加しない医師も多かったのです。何故かといえば彼らはビジネスだから医学的に議論すると結局金儲けの話題になり、結果反目することになるからでした。当然形成外科側、特に警察病院側とは反目しました。でも形成外科側は美容整形医との交流を拒まず、数少ないのですが、徐々に非形成外科医も懐柔していったようです。父は非形成外科医の美容整形医(美容整形に誇りを持っていました。)ですが、Om.先生とは交流がったそうです。勉強しに行った形跡はありませんが、シリコンの問題で意見を求めに行ったことがあったようでした。私が形成外科医に入局する際に背中を押したのも、形成外科側と反目するのでなく人脈を築き、学術的にも交流を持ち協同して美容医療を認知させ、医学的にも向上を図ることで日陰の存在(私は子供のころにやくざ医師の子と云われた。)からまともな存在にしたかったのです。
でも父は元美容整形の非形成外科の美容外科医として昭和36年以来の開業歴で、人脈も拡がったし、美容医療の世界でも顔役でした。Om.先生とも交流があったのです。そしてE先生とも交流を深めていきました。一度筆を止めて次週へ。