2017 . 5 . 19

美容医療の神髄-歴史秘話第91話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その66”「銀座から地方都市へ9:美容形成外科学医」

16年次に医局を辞して、開業をした頃の美容外科の世界の話題が沸騰して6回続けました。まだ書きたい事があったのですが、一度診療の場面に戻ります。そもそもE先生のクリニックを継承した事が発端で話しが違う方に行ってしまいました。

大分県は大分市が県庁所在地ですが、すぐ隣の別府市も経済的な圏内です。近年は湯布院も圏内です。前にも言いましたが、別府に行くと、どう見ても顔を触ったと考えられる人が普通に出歩いています。それもどことなく粋な人で、水っぽい人が多いのです。要するにその昔、高度成長期から、温泉芸者や飲み屋の女将とか、もちろん身体を売る人もいて、女性が稼いで街の経済を支えていたのです。決して温泉のお湯が経済を支えていたのではないのです。女性は気立てと身体もですが、見た目が商売道具ですから、皆がこぞって治したのです。当時は大分には美容整形医院はありませんし、全国展開のチェーン店もなかったので(博多には昭和40年代に開設された。)東京の美容整形医院に、わざわざ手術を受けに来たのでした。

それは父の銀座美容整形医院にもでした。当時から数少ない美容整形医院は東京に集中していて、高度成長期にはマスコミにも派手に露出していました。C.M.はもちろんですが、お決まりのエッチな番組にも、毎週誰か美容整形医が出演していました。今も昔も、美容医療は口コミが難しい分野ですから、マスコミでの露出に頼ります。テレビ、雑誌、本等々ですが、まだ地方ではチャンネルが少なかったので、露出密度は逆に高かったのです。また、雑誌もありきたりの広告だけでなく、記事も載せられました。

思い起こすと、私が初等科の頃、週刊Aに記事が載りました。さすがに全国有数の雑誌ですから最大の露出度でした。父は母を手術したのです。フェイスリトと眼瞼しわ取り術でした。いくら美容整形が流行り始めた時代でも、家族を手術する医師はまだいませんでした。今では常識ですし、逆に私達まともな美容外科医は、むしろ家族にもしてあげられるような、安全と効果のある治療をすることをモットーとしています。

初等科4年生だったある晩、私が帰ると手術を受けた母が帰ってきて、そのまま自室に隠れました。1週間は隠れていました。昭和40年代の父の手術は下手くそで、ダウンタイムも尋常でなかったのです。その後数週間経過して軽快しましたが、子供の目から見てそんなにきれいになったという印象は記憶にありません。私が10歳なら、母は34歳ですから若返り度が目に見えなかったのです。今思うと面倒なだけだった想い出があります。ところが、その数か月後突然取材が来ました。週刊Aの記者です。私や弟は制服を着て父母と4人で応接室に並んで写真に納まりました。次の週に載りました。「奥さんに美容整形手術する自信がある美容整形医。奥さんを美しくして、夫婦円満。家族も大喜び!」とかの題名でした。子供心に”なーにが夫婦円満だ。けんかばかりじゃないか?!。それにあんまり変わっていないし、きれいでもないかな!”と思いました。それに実は私は、ルックス的に母の家系に似ていて、まったく違ってしまうのは嫌な気持ちもありました。

後日談をいくつか加えると、もちろん学校では何人かの友人に読まれていて言われました。先生は読まないだろうから、「言いつけないでくれよ!。それに悪いか?」と言いました。学校にはばれませんでした。ただし、父母会とかの集りでは母はなんやかんや云われたようです。しかも、学年約120人の母親の中で、母は若い方から3番目くらいだったので、そこにフェイスリフトをしたら、目立ったのです。「お母さんはきれいだね!」と云われたこともありました。私は「別にぃ!」とか言っていました。

ちなみに一番若い母親は某大学勤務の女医さんで、子供の成績も一番でした。後年某子医大の副学長まで登りつめます。しかも50歳代の頃に、銀座美容外科にフェイスリフトを受けに来られました。そういえば父も「母子で美人だし頭もいい。」「あれつかまえろよ!」とか勝手なこと言っていました。「でも身長は高いし、俺より成績がいいから好きじゃあない!」と言って本人をも避けていました。後年同窓会で会って「こうこうだったんだ。」と話すも、やはり高嶺の花のままでした。でも今は普通の女医をしてるようです。私の方が面白い医師です。

ちなみに2番目に若いのは皇后陛下です。それは美しかった。もちろん品格も感じる。でも今やまぶたが落ちてきています。治していないので残念です。そりゃあそうです。天皇家は権威的に治せないのです。上の件では母は何気なく嫌味っぽく、言われたようです。

後日談として大分の話しに戻ると、上に記した九州への家族旅行に同行したのは週刊Aの記事を書いてくれた編集長でした。大分の夜に、家族を置いてきぼりにして二人が消えました。話が戻ってきましたが、要するに、大分は女の街、同一経済圏の別府や近年は湯布院もです。だから、私が開業した際にも、水っぽい女性がひっきりなしに来院しました。例えばデパートガールもキレイが売り物で、常連さんでした。湯布院は現役の女将が多いため、手術には至らないけれど、やはり美しさが売り物ですから、常連さんが何人もいました。残念ながら別府は斜陽ですから、現役の水商売女性は数少なかったですが、女性の美しさを売り物にする環境は変わらず、聴いていみると水商売の二世が続いていたので、「あなたも?」って言って腰を抜かしたものです。

実際の診療内容は私が差配しますから、普通の美容外科院並みです。広告戦略と差別化、電話応対は上手。私は待ちの医療ですが、何しろ手術もするし、注射系も流行りだしたとしても、美的観点は手術者が非手術者より遥かに上です。やり方だけ教わっても、一人ひとり違う患者さんに適した医療を見出すには美容的センスが必要なのです。ライバルが居てもそこは負けません。ただし広告は負けることもあります。そのあたりから次回へ。運営方法にも齟齬が生じ始めるから、その件に話がいたると危ない話へ進みます。