私が16年次に開設したA美容外科大分院は一応チェーン店みたいなクリニックですが、ほとんど常勤で廻していました。他に、4カ所程地方院がありました。チェーン店を模しているのですが、地方中都市での展開では全国展開のチェーン店の様な有用性はありませんでした。地方中都市のチェーン店もどきとしてのA美容外科の説明に戻ります。
何故もどきなのかは前三回の説明に基づきますよね。チェーン店のビジネスモデルは、全国的広告展開のコストを地方大都市が受け皿となり売り上げて元を取る。そのうち地方中都市には規模を縮小しながら進出してそれなりにシェアーを増やしていくのが方法論です。医師を始めとした人員配置は各院分には不足で本院から派遣したり、程度の低い安い医師を置くか(先日問題となった高知の院でも無関係な医師が院長でした。)で、売り上げに見合うだけのコストとする。箱等のコストは地方は低いのは当然で、大都市は高額でも元が取れる。
A美容外科グループは、どの点でもいま一つ違うケースです。全国的広告はもちろん出しません。代わりに地方中都市にエリアを絞って出す広告はものによっては二桁下がります。後で説明します。 逆に人件費は一院一人ずつに一応ちゃんと出来る美容形成外科医を配置しますが、実はフルタイムではなく、週3〜5日程度の診療体制にしますから、1/2から2/3に抑えました。他の数日は他院でアルバイトします。私は父が病後だったので、銀座美容外科で週1〜2日は診療しました。
箱は中都市ですから当然安く、どこも駅前にも関わらず、相応のコスト率でした。逆に地方中都市では美容外科院が他に数少ないから、駅近の狭いエリアを取れるのでした。そこで各地方院を説明します。
大分市には既にKy.美容外科院が駅前にありました。でもここも、福岡院との掛け持ちで廻していてフルタイムでないから余りバッティングしませんでした。別府には地元出身の皮膚科兼形成外科医(地方では大学に形成外科医局が無く、皮膚科内に形成外科診療班が有った。)がいました。ほぼ私と同年代ですが、毛の分野に於いては皮膚科だから得意だし、大分大学皮膚科の教授は国内でも有数の毛の専門家でしたからその関係からです。A美容外科大分院はE大先生から継承したのですが、彼も毛の手術の第一人者でしたから、仲間でした。A美容外科大分院となってからも、二人ともその後も月に何回かは手術しに来ていました。顔を立てておきました。大分には当時この二院だけでした。A院を入れて三院でした。商圏には大分、別府、(湯布院)を足して70万人の人口を数えます。概ね一院20万人が商圏とされますから、丁度いい割り合いでした。しかも前に記した様にこの地の女性は特殊ですから、いい商圏と考えまられました。実はその後三年間で二院新規開設がなされます。これがネックの一つとなりました。
他に三院。
長野県松本市は人口約20万人。県内では長野市の35万人に次ぎますが、山を隔てているから商圏は別になります。松本には一軒も美容外科は有りませんでしたから、独占的でした。駅前のロータリー(地方中都市の駅には必ず有る。)の対面に借りられるから、電車からも見えるので宣伝効果は高い。それに、松本市は東京から特急電車(あずさ)で4時間程度なので、東京を朝一番に出れば一日の診療可能な距離でした。ちなみに私は都下に住んでいましたから近く、家から何ヶ月に一回かバイトに行きました。もっともこれでは地方の情緒や名産に触れる暇はありませんでした。
でも、一度信州大学形成外科を訪問した事が有りました。綺麗なお城の隣ですね。信大形成外科には、これまでにも話題に登った眼瞼下垂診療の再先端の松尾清教授がいます。当時2002年ですが、5年ほど前に教授に就任した頃から眼瞼下垂の研究を学会発表しつつ、名医としてマスコミにも取り上げられました。私が北里研究所病院にいた頃、北里大学形成外科のS名誉教授が、Ut部長をマスコミに売ろうと画策したのですが、ついでに松尾教授も売りました。相乗効果でお互いの利益になると考えたのでしょう。そこで私はA美容外科松本院に出張バイトに行くついでに信州大学に見学に行きました。数日前にメールして置いたのですが、手術がいっぱいで会えないかもとの返事だったので、逆に手術見学を申し込んだらOKですって。
でも当日行ったら、たまたま眼瞼下垂の手術が無かったので残念でした。仕方なく、教授室を訪ねて行き情報交換をしました。前の手術が終わったばかりで手術着のまま入ってくるなり、「先月は北海道からN先生が見学にきました。先生も手術見られればよかったのにね。」とか、いきなり話し始めるので「エエッそんな遠くからですか?。それだけ松尾先生の手術を見学したい先生が沢山居るということですね!」と敬意を表しておきました。N先生は手術が上手で評判です。彼が遠くからわざわざ見に来たのですから、それだけ松尾先生の手術は見る価値があるのだと感じた次第です。その後1時間くらい話し込みました。手術手技的の議論については教授が「見てもらえばよかったのですが。」とはぐらかします。今思えば、当時まだ術式が安定していなかったと思われます。何故ならその後変遷しています。さらに考えてみれば、松尾教授の優位性は眼瞼下垂症の術式そのものにあるのでは無く、普及に力を入れたことにあるのでしょう。
その点から次回続きを書いていきます。これは美容外科・形成外科診療、美容医療全体の方針を転換する分岐点の一つになったと考えられるからです。