2017 . 10 . 11

美容医療の神髄-歴史秘話個人編-美容整形屋と美容形成外科医「番外編:美容外科医の家族は辛いよ!6」

私が何とか北里大学に入ると、父とは距離が遠くなりますが、自動車で行けば、実はそんなに時間は掛からないのです。学生時代に私は自動車を購入してもらい、4年生までは自動車通学をしました。当時の居宅は目黒区で東名高速に近いため相模原市の北里大学まで一時間少々でした。さすがに5、6年生には、臨床実習が毎日あるから通えなくなり、相模原市内にアパートを借りました。

父は大学に入る際に言いました「何先生って言う友達がいてさ。子供が医大に入ったので嬉しくて車を買ってやったんだって。それもポルシェだぜ。ところがそこはポルシェだぜ!、ぶっ飛ばさない訳無いだろ!一年性の間にぶっつけて大怪我して、大学を止める羽目になったんだってよ。」さもありなんの例えです。私に自動車を買い与える際に釘を刺したのです。もちろんポルシェではありません。安全なゴルフでした。

母はやはり、私に家に居て欲しかったのかも知れません。通う事を進めましたし、目黒の家は高校生の時に建てましたから、私の部屋はありますし、私も住み慣れていますからそうしました。車に関しては母も長年乗っていました。私が初等科時代は30分くらいの道程を自動車通学で毎日送ってくれました。弟は初等科に入らず更に遠くに通いました。だから、車に関しては身の回りの道具だと感じていました。

北里大学は相模原市の田舎の中にあります。近い駅は小田急線の相模大野ですが、バスで30分以上かかるため、電車通学生はほとんどいません。そもそも首都圏出身者は学年中20%程度と少なく、地方出身者は近くアパートを借ります。東京や神奈川の出身者も電車通学していた者は、記憶の中では皆無でした。入学後直ちに、東京神奈川出身者が仲良しになり、通学もつるんだり、帰りがてら車で遊びに行ったりを繰り返しました。田舎ですからスポーツ施設は散在しますし、車があれば昼食さえもファミレスに寄れます。良く行ったのはテニスコートと、バッティングセンターでした。他にもビリヤードやゲームセンター等の室内遊戯場も田舎ですから、駐車場がありますから、寄れます。

もちろん近くにゴルフ練習場がありそれも安い。料金は目黒の実家近くの半額です。この頃、ゴルフを始める者も出てきました。とはいっても私は、父とのゴルフの機会が多かったので、練習だけ相模原でした。

先に書いた様に、父はゴルフキチガイで、当時は日曜定休だけでなく、水曜も定休にして週に2ラウンド以上をこなしていました。当時バブル期でゴルフ場は流行っていて、父はいくつもの会員権を持っていました。そのうち半分程は東京より西側です。東名高速のインターから直ぐの所が多かったのです。当初は私がゴルフに誘われると、父は自分の運転で来て東名高速港北サービスエリアで私と落ち合い、私も乗り換えて私が運転して行くのでした。帰りは一度戻ってから乗り換えるのが面倒でした。三回目からは面倒なので私が赤坂に行って、そこに私の車を置いて父の車でみんなで行く様になりました。

ここで母はどう考えたのか「絶対部屋に上がるんじゃない。あの女に盛られる。」ここだけは曲げられない母でした。毎回マンションに行って車を入れ替えては、帰りも直ぐ乗り換えて帰る事にしました。父と二人で行くときは帰りに食事する事もありましたが、必ず外食でした。父もこれだけは守りました。多分最初に母が父に告知したのでしょう。事務主任が一緒に行っても手弁当を進める事はしませんでした。もっとも、事務主任はゴルフがド下手で、いつでも足手まといでしたしうるさいし、私のとってどんどん疎ましくなりました。その後ゴルフ中に限らず存在がより邪魔になります。医師になってからはどうにかして、目の前から消そうと考え始めました。これが落とし穴になりました。

医学部生時代は、ゴルフを父と私の数少ない交流の機会にしていました。でも行き帰り車中で三時間以上、ラウンド中はゴルフに熱中していてもゴルフは歩く時間が長いので、お互いに日常を知るべく会話を交わしました。将来についてもです。母は私が帰ると時をみて、聞き出そうとしました。私の将来は、母にとっての将来ですから気になるし、父がどのように考えているのかは気にはなるに決まっています。

会話の内容は今となっては覚えていませんが、重要事項は覚えています。「カズは(父は私カズヒコを、学生時代まではこう呼んでいました。)俺の後を継ぐんだから、ゴルフも俺の後を継ぐんだ。」と、ゴルフと医者を一緒にしていました。まあそれはいいとして、「女とゴルフは俺を手本にしろ。」って父親としてどうなんでしょう。二つ気になる問題点の話題も、「将来はチャコンさん(事務主任の久子を縮めてこう呼んでいた。)の面倒も看れるよな。」と私が嫌っているのを知って無理強いする様に念を押す際には、私は無視します。逆に私が「じゃあ、お袋はどうして上げるの?」と訊いても、無視するか「お前が考えろ!」とか、「お前は俺の言うことだけ聴けばいい。」とか険悪になったり、でもある時には「カズがこうして暮らせるのも幸枝さん(父は母のことをこう呼んだ。)の御陰だから、大事にしなさいよ。」って、まだ夫婦ではあるのに無責任な言。でも帰ってからその話しをしたら母は喜んでいましたし、父と私が交流する時間を持つことが良いことだと思っている様でした。

そういえば、私と配偶者も仲は良くなくても(、普通30年近くの夫婦は仲が良くない。)子供を介して繫がっているから上が深まる訳で、父と母もそうして繫がっていたんですね。それは今回母が亡くなってから判ったことです。母は父との写真を沢山遺していました。それに父の位牌を持っていてくれて毎日拝んでいたのは母でした。今は私の家に父母の位牌を供えて毎日拝んでいますが、目の前の家族と亡くなった家族の気持ちが繫がっています。

こうしてゴルフの話題を書くのも母が亡くなった御陰でもあります。次回はその辺から繋げて、私が医師になってから父と母の繫がりと事務主任との闘いを書き始めます。それが母へのはなむけだし、追悼になります。これで恨みっこ無しとします。

今私は忙しく毎日診療し、帰りは10時以降です。