目頭切開は戦前から行われています。国民的手術です。もちろん施術者は数少なく、しかも不自然な形に造られてしまっていた様です。
戦後(WWⅡ:第二次大戦)には、連合国に占領された我国にUSAからGI(軍人)が駐留しました。敗戦国の国民である日本人は経済的に困窮した結果、特に若い女性はGIに身を売って食わせてもらうため腕にぶら下がりました。その際日本人女性がGIにモテるためには外人(白人)顔に変える美容整形(当時はそう言いました。)を受けました。であれば当然、目頭切開手術が必要でした。その後高度成長期にに向かって、雨後の筍の様に美容整形屋が林立しました。東京で言えば昭和40年には山手線の各駅には美容整形が存在してました。つまり29軒以上です。中央線沿線も数えると約50軒はあったそうです。
その時代(昭和30年代)には形成外科医は存在しません。だから他科からの参入だけです。父は昭和36年に胸部外科医から転向しました。産婦人科や整形外科等からの転向者はゴロゴロいました。その様な彼らが美容整形手術のデザインを知っているわけはありません。目頭切開は美容外科手術の中でも最も細いデザインと精細な技術を要し難しいのに、手足等の骨折の手術をしてきた整形外科医が巧くできる訳はありませんよね!。結果的に不自然な形態と機能的な損失を伴う症例が続出していました。
私が美容整形屋の長男でありながら、何故形成外科に入局したのかは、他の板に説明したので割愛しましす。ところで標榜科目というのをご存知ですか?。おおっぴらに広告に科目名を書けることです。形成外科が標榜科目になったのが昭和51年で、美容外科の科目名が標榜科目として法律で認められたのは昭和53年です。だからそれまでは美容整形と称していたのです。私は昭和55年に北里大学(新千円札)に入学して平成61年に同大学に形成外科に入局しました。実は私は、非形成外科医の子でありながら形成外科に入局した初めての医師なのです。
父もご他聞に漏れず目頭切開を頻繁にしていました。いやむしろ”目頭切開術といえば森川昭彦”とさえ云われてました。ただしもちろん三日月形切除の改良法でω型切除をしていました。今でも何人かは私が継承して診ていますが、やはりなんとなく不自然です。やはり外人顔作りを売り物にしていたのが原因でしょう。そもそも胸部外科医(当時の主な手術は結核に対して胸郭を潰す手術)出身ですから傷跡も目立ちました。
ちなみに現在も美容外科医のうちほとんどは非形成外科医です。形成外科診療を適切に研鑽してから美容外科診療もできる医師は日本中で100人は居ません。もちろん三角皮弁を入れ替えるZ−形成術は形成外科の経験がなければ出来ません。下手な奴が手術すると皮弁が壊死します。勢い”目頭切開手術”はW-形成法ならまだしも、三日月型切除しかできないS等のチェーン店がのさばっています。結果的に拘縮の解除がされないか、むしろ創瘢痕拘縮で悪化した症例が産み出されています。
私が30年前に日本美容外科学会JSAPSで見た頃は目頭切開法はW-形成術のデザインが主流でした。私も今から15年前までは多用していました。蒙古襞は被さりに因る距離の問題が拘縮に直結するので、W-形成法では切除幅の量で距離を調節することができます。それまでの手術法と違ってWに切るとアコーディオン効果で拘縮の解除が得られるので理論的にも良い手術法だと思っていましたが、拘縮の解除は中途半端でした。
私は医師になって以来美容外科の学会発表や論文をくまなく読んできました。1996年は今から23年前になりますが、世界的な美容外科論文集であるPRS誌でZ−形成術の症例を集めた論文を見つけました。理論的にも結果的にも素晴らしいと感じて、すぐに私は飛びついて論文に載った方法を使い始めました。当時日本美容外科学会で同僚の友人達(私は毎年参加していたので顔が広い)に訊いても経験者は居ませんでした。つまり私が本邦初だと自負しています。
ところが今から12年前JSAPSで改良法が発表されました。そしてその場に居た池田先生とも意気投合して、この方法の有為性を議論しました。11年前に当院で診療を始めてからはZ−形成法を頻用してきました。こうしてもう11年間Z−形成法による目頭の蒙古襞の拘縮解除をしてきました。当初は患者さんに理解されませんでしたが、最近やっと解ってもらえる様になりました。蒙古襞を切り取るのではなく拘縮の解除を主目的とするので、先日からは目頭形成術と称しています。
何度も言ってきましたが、一重まぶたの人と二重まぶたの人の内眼角間距離は平均値で3㎜の差があります。したがって拘縮の程度にもその分の差があります。だ〜から〜!、一重まぶたを二重まぶたにする重瞼術または眼瞼下垂手術をする際には、蒙古襞の被さりを3㎜避けて、拘縮の解除をするべきです。つまりその形態が自然な二重瞼なのです。逆に言えば白人の様に蒙古襞がない(蒙古人種以外には蒙古襞がないのが当たり前です。)目頭にしたら不自然なのです。
昔のデザインの様な目頭切開手術や、未だにSチェーン等で行われている三日月形切除は受けてはいけません。美容医療の世界から駆逐されるべき犯罪者です。
そして”日本国民”にだけ理解して頂きたいのです。蒙古人種は東アジアに蔓延していますが、日本国では一重まぶたと二重まぶたが半々存在していますから、蒙古ひだの程度にバリエーションがあります。蒙古襞の狗縮(突っ張り)に差異があります。
だからこそ、重瞼術の際に目頭形成術(Z−形成法)を併施することをお勧めしてきました。最近SNS上で評判が立っている様で、目頭(Z−)形成術を希望する患者さんが増えています。本ブログでも毎回図示して説明して、3ヶ月以上の長期的結果を供覧しているからでしょう。その結果”国民”に理解されてきたとしたら、私も嬉しく思います。そして、皆さんに喜んでもらえる様に。これからの患者さんにお楽しみにしていただける様に、啓蒙活動を続けていきたいと心掛けたいと思います。
症例は39歳女性。幾つかの面で診察に来院。眼列横径25㎜:内眼角間37㎜:角膜中心間距離64㎜と蒙古襞の被さりが明らか。十数年前に眼瞼切開手術を受けた。結果蒙古襞の水かき状の被さりと縦方向の拘縮が目立つ様になった。他の手術の経過中に目頭”形成”術の予定を立て始めた。当初控えめに一辺3㎜のZ−形成術を予定したが、計算してやはり一辺4㎜の適応にした。
画像を供覧します。
術前の画像は遠近二葉。上右図は近接したのでレンズを見たので寄り目になっています。蒙古襞に隠れて内側の白眼が外側の白眼に比べて狭くなっています。蒙古襞が縦に拘縮して二重の内側が挙がらないので、つり目を呈しています。
デザインと線画図。左(向かって右)眼瞼の目頭にあるデザインが線画の左図です。
術直後の両眼瞼像も遠近二葉。接写でも寄り目に見えません。上の線画の右の図が術直後の傷です。出血でよく見えないかも知れません。
下二列は近接画像を左右。
左から術前、デザイン、線画図、術直後です。線画の左線がデザインに、右図が術直後の傷と同じです。目をしっかり開くとZ型が縦に伸びます。
左眼瞼と同様ですが、今回線画を左右反転して右眼瞼のシミュレーションしました。ところが図の位置も逆です。線画の右図が術前の絵で線画の左図が術後の絵です。
目頭形成術はZ−形成法以外の手術法は大間違いです。ただし外人顔にする場合は別です。もっとも目頭だけ白人のサイズにしても外人顔にはなりません。日本人は二重まぶたと一重まぶたが半々ですから、一重まぶたを二重まぶたに戻す(ホモサピエンスは二重まぶたが正常な形態と機能ですから戻すと言います。)際には蒙古襞も二重まぶたの標準に治さないと不自然です。その場合理論的に科学的にZ−形成法が最適で、それ以外の手術法は被さりは取れるけれど拘縮は解除できません。手術法によっては拘縮が悪化します。とにかくつり目を治すにはZ−形成法しかあり得ません。
今回は術前と術直後の画像だけ載せました。そういえば術式の説明と図の説明がなかったですね。中学生の幾何学に基づいた簡単な理論ですから次回説明します。
その前に術後1週間の抜糸直後の画像を載せます。
やはり遠近を載せます。フラッシュの反射の点の位置が遠近を示します。パッと見て、目頭の形態が丸くなって来て自然に近づいて来ました。
後で気になって来たのですが、左眼瞼(向かって右)が眼瞼下垂傾向で、重瞼が二股です。目頭形成術の腫脹の影響もあるのかと思って術前の画像を見直しても、やはり左が右よりわずかに小さい。患者さんは10年以上前から気付いていたそうです。眼瞼下垂は後天性腱膜性または医原性ですから、切らない眼瞼下垂手術で治せます。重瞼線は左右比べて同高に留めれば揃うでしょう。何れにしても目頭の創跡が落ち着く頃に検討しましょう。
またまたいつもの図です。本症例の患者さんは理解力が高く、説明を理解出来る知的な人なので、折角ですからその知的レベルに合わせて図の説明を加えます。
蒙古襞は縦に皮膚が突っ張っています。目頭部は下眼瞼に繫がっていてしかも深部に内眼角靭帯(本来は眼輪筋の腱)が骨に付いているので開瞼時に挙がり難い構造となっています。そこに蒙古襞が被さっていると開瞼時に水かき状に突っ張ります。手の指を見て指間(特に第一指間)を開閉してみれば判りますがある程度以上開くと指間の皮膚が突っ張り指側に被さります。目頭の蒙古襞もこれと同じ動きをします。
つまり目頭部では逆に考えて、眼瞼を開く際に下に付着した蒙古襞の被さりが多い程狗縮(突っ張り)が強く目頭部の開きを阻害(邪魔)するのです。被さりの程度は内眼角間距離と眼球の間隔が考慮されます。内眼角間距離が多い場合に眼球の間隔(角膜中心間で診る)が離れているのか蒙古襞が多いのかを判断します。これまで書いて来た様に、内眼角間距離の平均は二重瞼で33㎜、一重瞼で36㎜と統計を得ています。角膜中心間距離は60㎜が平均です。眼球が離れているのか目の間に蒙古襞が被さっているのかを計測して判断しなければなりません。
そして蒙古襞の被さりを治すには切り取るだけでいいのですが、拘縮を治す為には切り取るだけでは不可能です。蒙古襞の突っ張った皮膚を下眼瞼から外し付け替えなければなりません。Z−形成術は皮膚を縦に伸ばし横に縮める手術ですが、付け替えの目的も達します。
左図のabを蒙古襞の稜線に書きます。b点は蒙古襞の下端です。実物では本症例の様に直線的な場合もありますが、曲線的な事が通常です。そしてabdが目頭の角で、下向きです。三角皮弁abcを鼻側の三角皮弁cabと入れ替えます。皮弁を内眼角靭帯の上まで剥離挙上しますと涙湖の内側まで一緒に動かせます。入れ替えると右図の如くの形になり目頭の皮弁a’c’d’が横向きになり元の蒙古襞の稜線abがa’c’になり、蒙古襞の下眼瞼への付着部までの距離がa’b’と伸びて突っ張りが軽減されます。
最近は95%の症例に一辺4㎜のZ−形成術を行なっています。上に書いた様に一重瞼の蒙古襞を二重瞼の蒙古襞に変えるならこのサイズが自然だからです。Z−形成術は60度の正三角形の皮弁を入れ替えますから、√3を使えば計算出来ます。計算上、蒙古襞の稜線の4㎜の長さabがa’b’=7㎜となり皮膚眼輪筋の狗縮が軽減します。目頭の位置はb点がc’点になり7㎜のcdが4㎜のc’d’になりますが、蒙古襞は襞ですから表裏に皮膚がありますから表側はその半分の1.5㎜開きます。両側で3㎜、つまり内眼角間距離が3㎜減ります。
実際に計算通りかは術後経過で変わります。縫合されている間はわずか1㎜程度でも糸が掛かっている部分は余計に引っ張られますし、創の癒合は癒着で術後3週間頃は硬くなるし、狗縮します。軟らかくなって狗縮が無くなるのには術後3ヶ月までは診ましょう。最もケースバイケースで本症例の様に術後早期から形態が良好で自然な事も多いのです。
当院では、2018年6月に厚生労働省より改定され施行された「医療機関ホームページガイドライン」に遵守しブログを掲載しています。 医療法を遵守した情報を詳しくお知らせするために、症例写真・ブログに関しましても随時修正を行っていきます。症例写真の条件を一定とし、効果だけでなく、料金・生じうるリスクや副作用も記載していきます。ブログにも表現や補足の説明を付け加えさせていただきます。
施術のリスク・副作用について:・麻酔薬にて、アレルギー反応を起こす場合があります。その場合は適切な処置を行います。・腫れは個人差がありますが、手術直後から少し腫れがあり、翌日がピークで徐々に引いていきます。目立つほどの大きな腫れは1~2週間程度です。・術後のむくみや細かな左右差の改善には、3ヶ月程度かかります。・内出血が起こった場合は完全にひくまでに2週間程度かかることがあります。・感染予防のため、抗生剤を内服していただきます。・手術直後は、つっぱりを感じることがありますが、2週間程度で改善していきます。・目頭の切開部位は、目やにがでる場所ですので、消毒にご来院下さい。・手術当日は、洗顔をお控え下さい。・手術後3日間は、飲酒・激しい運動・サウナ・入浴など、血流が良くなることはお控え下さい。・手術後1週間(抜糸まで)は、切開部位のお化粧はお控え下さい。・ケロイド体質の方は傷跡が残りやすい場合があります。