2015 . 9 . 14

美容医療の神髄20-歴史的経緯第20話- ”口頭伝承話”その20

卒業時に入局のために面接を受けるのは当然ですが、私は当然の様に受けました。ここからは自分史でもありますが、形成外科・美容外科の世界に身を置くことになる訳ですし、元祖美容整形屋の父とは、軋轢を生じながら、共に美容外科の世界を生きていくことになるのです。

新しく社会に出るスタート時には、誰でもそうでしょうが、不安と期待に染まっている筈です。面接の内容はもちろん覚えていませんが、同期で受けた4人は合格しました。当時は大学病院に入職して研修医になるには、定員等は無かったようです。その2年前には8人入局しましたし4年後は11人入局しました。北里大学形成外科は、全国的でも有数で症例数も多く、一部美容外科も診療していたし、関連病院が多いために働き所が多く人気だったのです。

いよいよ昭和62年6月から北里大学形成外科に入局するのですが、その前にもう一度何故私が北里大学形成外科に入局したのかまとめて書き連ねてみます。そういえば、就職面接の際には動機を聴かれるから、頭の中にまとめますよね。私もそうしたと思います。もちろん27年前のことですし、記憶でしかありません。いや記憶も薄らいでいます。ですから、思い出したことを書きます。

1、幼少時から、父に医師になる様にそれとなく勧められて来た。直接そうは言わずとも、「医者はいい仕事だよ!」等と常々云われて来た。

2、美容整形は女性相手の華やかな仕事で、とても喜ばれる。愛される。と吹き込まれて来た。

3、父は私が中学の頃、医院のそばに移住したが、私は適時訪れていたし、2ヶ月に一回程度はゴルフに同行して、よく話し合った。

4、大学に入る際には、父は私に「医師になったら、美容外科を継ごうかと思っている。」と言わせ、父は賛成した。

5、その後も情報交換し、いきなり父の医院で一緒はあり得ないから、どこに就職するか検討したが、父は美容外科チェーン店は駄目だと断言する。

6、これからの時代は美容外科はまともな医療になるのだから、まずは形成外科で基本的知識と技術を身に付けながら、銀座美容外科でも勉強すればいいのではないか。

7、対立している非形成外科の旧美容整形の開業医とチェーン店に対して、形成外科出身の美容外科医の内実を探らせたい父の思惑。

8、形成外科が日本で診療される様になった後に形成外科医から美容外科も診療する医師が出て来たが、美容整形から美容外科になった医師の二代目はまだいない。私は形成外科に入ってから美容外科も診療していこうとする初めてのケースだから、その意味で時代のパイオニアーになれるとの見立て。

このことについては後年に証明されます。何故なら実際に後々同様のケースがあり、形成外科出身の美容外科医の二代目も少なからず形成外科に入りました。TVに出てるN先生がそうですが、彼は2年しか形成外科を研修していません。また大阪のS美容外科の後裔は二つに分かれて本院は無くなりました。ところが逆に、形成外科出身の美容外科医の二代目で、形成外科に入らないで後から美容外科に転向した者もいましたが、多くは挫折しました。私達親子と同じく、非形成外科の美容外科医の二代目も少なからず形成外科で修行してから父を継いでいきました。Tクリニックはそうです。O美容外科もそうです。逆に非形成外科の美容整形上がりの美容外科医の子息で形成外科を経ないで継いでいくのは、J整形だけでしょう。

上記8に書き足した後日談は、歴史上に各年代に書いていきます。でも、意外と多いんですね。もう、第二世代なのです。まあ思い起こして来たから判ったことですけれど、その結果私の動機をもうひとつ思い出しました。

美容整形は戦後の高度成長期に興隆しましたが、この頃日本は国民会保険制になった中で自費診療となりました。保険診療は患者の費用負担が少なくて、数をこなす医療でしたが、自費診療では料金設定は自由で、しかも全額負担ですから、美容整形は金儲け主義の代名詞の様に思われていました。概ねですと、同じ治療を保険でしたときの30割でした。さすがに今では20割以下ですが、これはデフレ時代だからです。

そんな美容整形医の子である私は、幼少時から金持ちのように見られていました。違います。父は遊んで使っちゃっていたから、私は中くらいでした。しかも、バブルの時代(昭和50年代後半=高校の頃)になると、美容外科もそれなりに伸びたのですが、前にも言ったように参入が増えてきたから、シェアーはむしろ減りました。それに比べ、周囲の景気はものすごかったです。平成に入った頃の同窓会では、ローレックスの金をしている奴が何人もいました。ちなみにバブルがはじけてからは、同じ奴がしみったれた恰好をしていたもんです。

時代の流れで栄枯盛衰はあるものです。私の高校性時までは美容整形は寡占状態で、確かにぼったくり気味の料金でしたが、社会的認知は低く、よって患者も限られていたから言うほど稼げる訳ではなかった。昭和53年に美容外科が標榜科目となってからは、雪崩を打ったように新規参入が増えて、チェーン店化して雑になってレベルは下げるは、広告費を回収するためにオートメーション化するはで、患者は増えてもそれは裾野で、うちのような真面目なハイレベルの医院はあまり変わらなかったのです。そして、大学時代をバブルの最中に地味に過ごし、卒業の頃にはバブルははじけつつありましたから、別においしい思いはできませんでした。

つまり時代の流れに沿うと、金儲け主義からバブル、そしてバブルがはじけてからは、普通の医者で生きていこうと思うのは当然です。美容外科を普通の医療にしたいと思ったのです。それに金儲け主義といわれるのもいやだし、まじめに勉強してハイレベルの美容外科を身に付けてから、継いでいこう。さらに銀座美容外科には箱があるから無理に稼がなくてもいいし、ネームバリューと評判、ファンともいえるようなリピーター患者がいるから、過剰な広告は必要ないと考えた。それなら、ちゃんと欧米のようなレベルの高い形成外科のコースを取ろうと思ったのです。形成外科と美容外科は目的が違いますが、知識と技術は共有しています。欧米では一緒の科目です。日本でもこれからは、形成外科を系統的に研修してから、美容外科も同時に修練していくのが主流のコースになると思ったのです。そうすれば、まじめな美容外科医として社会的に認知されると考えたのです。実際患者さんをはじめ、周囲の知的水準の高い人は知っていて、私の考えを理解してくれました。下に後日談を。

私が形成外科・美容外科に入局してから27年となりますが、当初は、形成外科医局員は、美容外科を小ばかにしていました。先輩に「美容外科患者はおかしい。」とも言われ、自分をも否定されたみたいでした。しかし私は、北里大学形成外科の医局に在籍しながら、父の医院を手伝って美容外科の診療も学んでいました。しかし、そうしているうちに形成外科医療も面白くなっていきました。10年目くらいの時に例の学会での教授の宣言「形成外科医は美容外科を積極的に診療していくべきだ。」の後には、私は形成外科の中に居ながらにして、美容外科診療に再び力を入れました。その後大学病院の形成外科で美容外科診療を推進する立場にもなりました。16年目に美容外科の開業をしました。当時はまだ形成外科をちゃんと研修して認定医を取得してからの美容外科開業医は少なく、今ほどITによる広報活動がなされていませんでしたから、社会的認識はされていませんでから、形成外科と美容外科を修練した有為性は、一般に知られていませんでした。つまり患者さんも少なかった。父の患者を継いでいても数限られていて、そのうち、インチキ美容整形屋に銀座美容外科は乗っ取られて潰されて、私は東京皮膚科形成外科に務めて診療しています。

ここにきて、こうしてブログを書いています。とっても有用な啓蒙広報法になっています。本邦では、形成外科と美容外科の両方をハイレベルに診療できる医院は、まだ30軒もありません。ここではそのアドバンテージを有効に生かして診療しています。このブログもかなり使えているようです。

思い返せば、数年前までは、自分の道を間違ったかと思うことさえありました。いまだに広告一辺等の非形成外科のチェーン店の美容外科もどきの輩が多くて残念ですが、徐々に社会的認識が高まってきました。数年後には、JSAPS(形成外科出身の美容外科学会)の専門医が政府から認定されます。私は保持者です。まだまだ、手が動き、目が効くうちは形成外科・美容外科医として、診療に邁進していこうと思う今日この頃です。だから、形成外科と美容外科を同時に研鑽してきた私の生き方を顧みて、こうして自負するブログも書いていきますから、皆さんに認識を持っていただきたいのです。

あらぬ方向に話が進みました。北里大学病院形成外科に入局するにあたっての私の心の内を思い起こし、書き始めたら長くなってしまいました。次回は時計を戻して、入局直後から再開します。上の文で囲った言葉から入ります。