2年次は東京に務めましたから、有用な経験をしました。父との交流もそうですが、個人的には配偶者を決めました。そして、3年次のローテションを医局長と同学年次の医師3人で検討することになります。
突然ですが、前々回の入局時の言葉を思い出しました。O講師が、「美容外科の患者は精神疾患を持つことが多いんだよ!」要するに美容外科医療を蔑んでいるのでしょう。彼等の言う形成外科に基づいた美容外科。美容外科は形成外科の一部だと言い張ること。彼等が美容外科を美容整形と同じく下に見ているのは、美容整形から美容外科になってから形成外科を選択した私としては心外なことです。あくまでも、美容外科と形成外科は両輪でありながら、併存するべきものです。日本では別の標榜科目ですから。
最近O先生と私の間に患者さんが行き来することがあります。彼は大学の形成外科講師を務めながら、同時に美容外科診療を内緒でしていました。今は大病院で形成外科・美容外科を診療していて、特に修正手術が売れています。父が昔治療していた患者さんで、経年変化もあり、また再建を求めて彼を受診する者がいます。ところが、結果がどうあれ患者さんの多くが戻って来て、一様に「O先生は美的センスが不足!」と私に訴えます。大先輩の結果を私に言われても、答えようがありません。結局もう一度治していくことになることもあります。それで満足してもらえれば許してもらえるから。
美容整形から、美容外科に名称が変わっても,コンセプトは変わらないと考えられます。正常患者をより美しくして差し上げる。どうすれば美しいかを指導してあげる。美容外科は決して技術だけではありません。美容医学(美学)を要します。そういえば彼は「俺はプラモデルが上手で、鉄道模型も精巧なんだ。」と、自分は器用だと言いたかったのでしょう。そこには、美容を見る観点が感じられません。人間は模型じゃあ無いぜ、美容は美術だが物作りではないよ。形成外科医局員1年目を書いていたら、イヤーな言葉をまた思い出して、同時にまたその延長の結果に遭ったから、余計なことですが書き足してみました。姿勢は変わらないのですね。ただし大先輩を揶揄しているつもりはありません。このようにビジネス美容整形の対局にいる形成外科出身の美容外科医の種族も存在するという一人物を紹介したまでです。歴史から関連した話題に過ぎません。彼等に対する父の評価も、後日記載することになるでしょう。
という訳で,3年次のロテーションの希望として,私は,北九州の産業医大の整形外科を選択しました。さらにその翌年次は、熊本の西日本病院形成外科への出向になる予定も加わりました。
北里大学形成外科の当時の教授と産業医大の整形外科の教授は、東大時代の同級生だったそうで、そんな縁から整形外科のローテーション研修の施設の一つになっていたようです。さらに、産業医大には形成外科がないため、将来開設時には派遣する含みもあったようです。また、産業医大には形成外科が無いため、卒業生が北里大学形成外科に何人か入局している縁もあります。ちなみに、そのうちの一人は現在の教授です。
4年次に出向する可能性が高い西日本病院は、当時まだ開設数年の新しい病院ですが、熊本市中心の古い病院のサテライトです。整形外科医が産業医大からの出向なので、その関係もあり、形成外科開設時に北里に声がかかったのです。それに北九州から、翌年熊本に移るなら、異動が簡便です。この病院は空港にも近く、市中心部も遠くはなく便利なところです。
私は埼玉県川越市産まれで小学生の時から東京育ちで九州には縁がありませんでした。幼少時に旅行したことはあったくらいですが、よく覚えていません。そんな私が九州に2年間、そのうち北九州に1年間と熊本に1年間住むことになるのですが、妻が鹿児島出身であるため、気が重くはなかったのです。当時はまだ九州新幹線は無いのですが、高速は通じていて北九州から鹿児島が約4時間、熊本からでは2時間台で行けるので、安心感があったのです。
そして赴任直前には、第一子を授かるのです。むしろこうなれば、鹿児島の両親を頼ろうということで、九州出向はラッキーともいえました。その分東京の両親とは疎遠になり、当時はまだ、九州には美容外科チェーン店の支院も少ないので、美容外科の世界に触れる機会も少なくなりました。
少なくとも、整形外科研修の間には、美容外科に触れる機会はありません。北九州市はご存知の通り政令指定都市ですが、鉄鋼炭坑の街ですから往時の栄華は無く、特に八幡東区や八幡西区は暗い街でした。特に風向きによっては製鉄所の黄色い煙が空を流れるので、生まれたばかりの長男を連れて出掛けるにも日を選ばなければならなかった程でした。とは言え親子3人で、さらに何回かは鹿児島の母が来てくれたり、何回か鹿児島に行ったりしました。
プライベートの話はいいとして、3年次、4年次の研修の内容は次回にします。