2016 . 3 . 24

美容医療の神髄43-歴史的経緯第43話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科医。自分史話へ”その20”

7〜8年次の私は、茅ヶ崎徳洲会総合病院で形成外科医長を務めていました。レジデントを終え、スタッフとして、一つの病院の診療に責任を感じながら業績を伸ばしていく事が、楽しくて仕様がなかったのです。診療業績をかいつまんで前回説明しました。

同時に週に一日の研究日と土曜の午後を大学に研究に行くのではなく、暗黙の了解事項として、美容外科診療の勉強に、銀座美容外科にバイトに行く事が出来る自由を得ました。それまではおおっぴらに美容外科のバイトに行くのでなく、父に会いに行くという建前でしたが、バイト扱いが認められました。

同時に日本美容医療協会の動き=日本美容外科学会JSAPSとの関係と理事選の件。翌年には異動とJSAS側の美容外科院でのバイトざんまいの件。その延長として、日本美容外科学会JSASへの加入と父の会長職、日本美容外科医師会の発足への参画等などがあり、この頃には時代がめぐるましく流れます。この頃については、時系列が記憶上ぐちゃぐちゃですが、先ずは銀座美容外科での美容外科診療について簡単に触れます。

特に診療の記憶上面白い事はなかったのですが、この頃診察した患者さんのうち何人かは、今でも診療継続しています。手術した患者さんもです。

とは言っても、私は中学生時から銀座美容外科医院に出入りしていました。自分の父が主宰している診療所でも、一般的には子供を出入りさせる機会は少ないと思います。池田クリニックは家と同じ建物ですから、時々家族も出入りしますが、遠方のクリニックに家族が訪れる話は余り聞きませんよね。

銀座美容外科医院(昭和53年までは銀座東一診療所から銀座整形という屋号)は銀座一丁目にありました(だから当初は銀座東一診療所と称していたのです)。私達家族は中学生時までは千駄ヶ谷に住み、銀座まで地下鉄で30分。高校生時には目黒区八雲に引越しましたから、銀座まで1時間以上かかります。

何故銀座まで行くのか。一言で言えば父に会いに行くのです。私が中学2年生の時に父は家出して、赤坂の事務所に留まりました。私はそれまで、父によく遊んでもらうのが好きだったのです。そこで父に呼び出されて、定期的に銀座に遊びに行ったのです。診療を見物する事も稀にありましたが、要するにかまってもらいに行っていたのでしょう。ごく少数の患者さんにが、今でも覚えているそうです。

とにかく、大学時代には銀座美容外科によく出入りして、医学の話をよくしました。なんか楽しい時でした。父も、それはそれは楽しそうでした。その後北里大学形成外科に入局するかの相談でも延々と話し合いました。大学病院に入局してからも、折りをみては銀座に行きました。父としては形成外科医療の何たるかも知りたがっていたからでもあります。美容整形医と形成外科医が、間に美容外科という鎹を挟んで、二人で三者面談みたいでした。この頃は診療するのではないのですが、時折父と一緒に患者を診ました。形成外科的観点からの意見を求められたり、縫合くらいは手伝いました。

7年目からはバイトの形で診療をしました。私達形成外科医の得意分野は切開法と縫合法ですが、もっとも大きな優位性は、顔や体表の外傷や腫瘍等の診療をしているから解剖構造に精通する事です。何度も言いますが、美容外科は切らないか切っても狭いので、深い構造を見る機会がないのに対して、形成外科は既に壊れて来た創や、切除の為に深くまで切る事が多いので、解剖構造を、日常的に医師の肉眼で見る機会が多々あるからです。教科書や解剖学図譜で見るだけと、自分の眼で肉体内部を見るのとでは、理解が格段に違うのは自明です。

例えば鼻の軟骨の構造も目で見て知ってます。前回記載した鼻の皮膚癌をごっそり切除し、再建する際には鼻の構造をこの眼で見ていきます。場合によっては顕微鏡視もします。これは鼻の美容外科手術の際には見えないので、美容整形医は知りようもありません。

フェイスリフトの際には、顔の層を理解していて、顔面神経を知り尽くしていなければ危ういのですが、これも前回記載した耳下腺腫瘍手術の際に目で見ながら確認して行き、温存する方法を学んで行ったのです。美容整形医は見た事もありませんから、浅い手術しか出来ないのです。実際に、父を代表とする美容整形医が、深く入ってしまった為に顔面神経損傷を後遺している患者さんを、数名は診ました。ちなみに北里大学の当時の教授は「耳下腺腫瘍手術は、お前達が将来美容外科医になる為の勉強になる。」と言い、「だから私達が手術する。よく勉強する様に!」と優しく言い放ちました。

眼瞼切開手術は、父の得意分野とされていました。確かに、昔の芸能人で父が作った二重は沢山います。でも、構造をちゃんと知っていない証拠があります。眼瞼下垂症を合併している患者さんがゴロゴロいるからです。医原性眼瞼下垂症です。今でも露出している芸能人で、これは父が作った二重の後の眼瞼下垂だな、という人は何人もいます。まだ8年生での私は、眼瞼下垂症手術の経験が、今程多くはありませんでしたが、上級医の手術の助手をしながら見て来て、解剖的構造を見てきましたから、父の手術の手伝いの際にも挙筋の処理に付いて毎回アドバイスして行くようにしました。実際に父に眼瞼形成術を教える様になるのは、8年目以降に眼瞼下垂手術を沢山する様になってからでした。

他にも教える事は沢山ありました。例え8年生でも、形成外科医の私には美容整形医である父に与えるべき知識が次々にできました。もちろん逆に、美容的観点に付いて父から教わる事は多かったです。そのうち私も銀座美容外科医院で父に代わって手を出す様になりました。その頃のトピックとしてSMASフェイスリフトを父に代わって施行し始めた事があります。

8年次だったと思います。そうはいっても私一人では不安なので、子分を呼びました。当時北里大学形成外科・美容外科では、SMASフェイスリフトを出来る先生がいました。20年前はまだ、大学でおおっぴらには、美容外科手術をしない時代ですから、バイト時に連れて行ってしていたのです。その際若い者を鞄持ちに連れて行って助手をさせたり、手を出させたりしていました。そのうちの一人のIg先生は私が6年目にチーフレジデントをしていた際の2年生でしたから、声を掛けて銀座美容外科医院に呼び出して、SMASフェイスリフトを手伝わせました。記念すべき銀座美容外科医院でのSMASフェイスリフト第一例で、私にとっても第一例でした。今でもその患者さんは継続して診ています。私が手術する際に、Ig先生に一々念を押す様に確認しながら、手術を進めました。全く通常にSMASフェイスリフトを達しました。

上に記した通り、顔面の解剖構造は美容整形医が触る事はないのです。何故なら医学部では教えません。では医師になってから、誰かに教えてもらう機会はあるのでしょうか?。普通あり得ません。通常美容外科医は、新人から就職するか、他科からの転科です。一般に手術をするのに、下位の先生に教えながらなんて無理です。予め教科書で勉強してから臨んでも、実際の神経や血管を同定する事は出来ません。判らないで知らずに傷めたら大変です。ですから、美容外科医は医学的素養を身につける機会がないのです。しかし、形成外科医は外傷修復や腫瘍手術を沢山経験しながら、解剖構造やその生理機能を眼で見ながら頭に焼き付けて行きます。顔面の神経、血管そして筋と筋膜(=SMAS)の層を識別する事が出来る様になります。だから、いきなりSMASの層を同定出来ますし、SMASに挟まれた顔面神経の位置を知っています。何度も述べますが、耳下腺腫瘍手術を何例も経験していればすぐに神経を見出せます。耳下腺手術の経験がない美容整形医はフェイスリフトをしてみて顔面神経を切断してしまってから、初めて顔面神経を知るか、または恐れてSMASの深さまで触らないから、手術効果が少ないかのどちらかです。父が手術した患者さんが証明していますし、他の非形成外科の美容外科医で受けた後の患者を診ても判ります。S美容外科で受けた患者さんは皆「半年で元通りになった。」と訴えます。ここに記した銀座美容外科でのSMASフェイスリフトの第一号患者さんは、20年経た今でも診療していますが、充分に効果が残っていて、この際の事を聴くたびに悦んでくれます。

SMASフィスリリフトを共同手術した件は楽しかったです。他にも父と私で共同手術をしました。ただ逆にいえば、当時の形成外科医局員8年次では、そんな機会はなかなか作れないものです。先ず大学病院系の形成外科・美容外科には、患者が少ない。だからだけではないけれど、美容外科的手術の症例は、上位の先生が術者になることがほとんどで、チーフクラスが第一助手で研修医は第二助手というパターンが定着していました。私は、銀座美容外科医院で経験をどんどん積めたので幸せ者でした。

20年前には、形成外科で美容外科を積極的に診療し、勉強していこうという大学系の医局は数少なかったのです。1998年の日本美容外科学会JSAPSまではです。その話は次の機会にしますが、実は形成外科でも美容外科を積極的に診療する大学がいくつかありました。代表的なのは3カ所です。東大本院ではない出向先の東京警察病院。北里大学形成外科・美容外科。そして、昭和大学形成外科です。他にも数カ所はありますが、主にバイトで先で手術しています。

警察病院は東大病院昭和30年代に本邦で初めて形成外科を発足させる際に、さすがに国家機関である東大では自費診療はまずいので、警察病院に出向して診療したのが始まりです。当時は国民皆保険制度が成立したばかりで、美容整形はもちろん形成外科的治療も保険が整備されていなかったからです。警察病院出身の形成外科・美容外科医が数名開業していきました。その後昭和51年の形成外科標榜、53年の美容外科標榜の際には彼等が汗をかいたのは当然です。非形成外科の美容整形医との闘争を主導して行ったのも彼等です。

日本に形成外科を作っていった医師は、ほとんど留学しています。一部は英仏独にも行きましたが、ほとんどは形成外科・美容外科のメッカであるUSAです。USAでは、形成外科医が美容外科を兼ねるのが通常でした。ですから、留学した医師の一部は、形成外科の研修時に美容外科医療も研修してきました。その内の二人が、後に北里と昭和の教授になります。

昭和大学医学部には、O教授が留学から帰って就任し、本邦発の本格的形成外科手術書を著したり、美容外科診療をOB?の病院(Tクリニック等)で診療していました。そうでありながら、昭和51年に形成外科が標榜科目となる際には「形成外科医は美容はしない。」と宣言して後ろ指を指されたりしました。後継の教授も(特に同期のT医師と)いろいろもめた人でした。それも後日談です。

北里大学は昭和45年開学ですが、形成外科にはS教授が就任しました。USAにフルブライト留学して形成外科・美容外科を学んで来たので、当初から形成外科医局で美容外科も診療しました。ところが、その後美容整形屋が蔓延ったために、形成外科医が美容外科診療をするのを憚られる風潮となりました。私が入局した際もそういわれましたが、一部の医局員は美容外科診療をしていました。そして、1998年の学会でS教授が「これからの形成外科医は美容外科診療も積極的にしていきましょう。」と宣言してから趨勢が変わりました。でも私の8年次はまだ、それより前です。その辺は後で述べたいと思います。その後U教授に代替わりしてからは、さらに進出しました。

このように大学形成外科医局員は、その後美容外科に進出していきますが、この頃まだ発足2年の日本美容医療協会の動きがありました。その折は大学系形成外科がかなり暗躍しました。もちろん北里や昭和が主メンバーです。次回はその前に、私の異動も絡めて時代を追っていきたいと思います。