7〜8年次の私は、茅ヶ崎徳洲会総合病院で形成外科医長を務めていました。レジデントを終え、スタッフとして、一つの病院の形成外科診療に責任を感じながら業績を伸ばしていく事が、楽しくて仕様がなかったのです。診療業績をかいつまんで前前回説明しました。前回は銀座美容外科の話をしました。
ところが異動を命じられました。その後の日本美容医療協会の動き=日本美容外科学会JSAPSとの関係と理事選の件。その延長として、日本美容外科学会JSASへの加入と父の会長職、日本美容外科医師会の発足への参画等などがあり、この時代は目まぐるしく流れます。この頃については、時系列が記憶上ぐちゃぐちゃですが、先ずは異動の話から続けます。
9年目には北里研修所病院に異動する事になりました。茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科での形成外科診療はその頃伸びていて、学会認定施設も取得したし、2人体制で教育も行われていました。普通に考えたら、異動を求められない状況ですし、病院からも異動は避けたい希望がありましたし、私も一度は拒否してみたいところです。しかし異動先が、私にとっても医局にとっても、または私の父にとっても特別であります。
北里研究所病院は、名前の通り北里柴三郎博士が創建した北里研究所に付属する病院です。彼の大先生は明治期に日本の医療制度を整備し、医学的な研究によって重大な発見を数多く発表し、国際的に貢献した医師です。伝記で読んだ方も多いと思います。政府や軍部主導の医療と医学研究を、民間的に経済的観点も取り入れて展開し、国民一般に医療を広めたという面も重要です。やや収益優先的な経営方針を取っていますが、そうしないと向上しないからです。今回のノーベル賞の薬も世界の人類に貢献したのはもちろん、経営上大きな寄与をしました。これまで多くの抗生剤を開発しましたし、昔は血清銀行で稼いでいました。最近のインフルエンザ等のワクチンの普及も北里が主導しているのです。
ところで北里柴三郎博士は、慶応大学の初代医学部長です。福沢諭吉等に助力を受けて創立しました。そのため北里研究所と付属病院は、慶応からの出向者で占められてきました。父も昭和28年に慶応大学医学部卒業後胸部外科に入局しましたが、直ちに北里研究所病院に出向しました。ただし昔は結構いい加減で、北里専属でなく、父の叔父が院長をする病院である川越市の赤心堂病院での診療もしていました。ちなみに私は3歳までそこに住んでいました。逆に当時の胸部外科教授は大学での診療だけではなく、北研病院での診療教授として診療していたそうです。いってみれば、北研は慶応にとってむしろ大学より上級の病院な訳です。ここでの研究で医学博士も取得出来ました。父もそうです。これについては後で追加します。これを称してレールジッツというんだたそうです。平行線路的な関連病院という意味です。
さて北里研究所の50周年を記念して、北里大学を設立したということになっています。用地を貸したのです。でも他に目的がありました。要するに慶応大学を卒業して大学医局に入った後、研究所に出向した後に長く居て実力がついても、大学には戻れない医師にとっての働き場所を求めたのでもあります。北里大学医学部の初代教授陣の約3分の1は慶応出身で北研出身でした。北里大学医学部の創立が昭和45年で、私が入学したのは55年ですが、まだ慶応が主体でした。父は分校と呼んでいました。もちろん北里大学には父の知り合いが沢山居ました。
そんな訳で、北里研究所病院の勤務医もいつまでも慶応出身だらけでした。当時放射線科は慶応出身かで北里教授となり出戻りで北研病院部長。他に泌尿器科が北里からで、他の全科はまだ慶応出身でした。ところがいろいろ画策して、北里大学形成外科からの出向で、形成外科を開設する事になりました。北里大学形成外科のS前教授と今やノーベル賞の当時の北里研究所のO所長が東大で懇意だったのも優位に働いたようです。
つまり創設ですから、やりがいがありそうです。父が務めたのも知っていたのでしょう。茅ヶ崎徳洲会の伸びしろを捨てても、私を遷す価値があるのでしょう?。私に取っては、銀座が目の前になるというメリットもありました。もっとも、またもや一からの立ち上げになりますから、臨床的経験としては優位生は低いのです。さらにさすがに由緒ある関連病院の創立ですから、9年次の私の上に14年目の先生が部長となります。U先生で今は帝国ホテル内で開業しています。彼はチーフの後にいきなり開業もどきをした後すぐに潰して、留学したのです。USAで形成外科に研究員として就職し、美容外科の先端的研究をしてきました。主に3Dによる画像解析と動画による加齢変化の解析を学んできました。当時最新のMacのタワーのパソコンを駆使していました。ただしその為、臨床経験は多くないのでした。
二人で診療を始めましたが、閑古鳥でした。病院の性質から救急は先ず取らないから、外傷も少ない。悪性腫瘍などは大学に紹介されるから来ない。他科に徐々に啓蒙して、美容外科的患者を呼び始めました。とは言ってもぼちぼちでした。S教授がマスコミをたどって広告的活動をしてくれましたが、この間にはほとんど効果はありませんでした。北里研究所病院では臨床経験は余り積めませんでした。
そして、時間はあるけど給与は過小です。上の述べた様に、父の時代から慶応系は喰わせないで、バイトで喰えばいいとしています。今でもそうです。そういえば、日比谷病院に外科出向した際に、慶応から毎日バイト医が来ていました。「これなしでは生きていけない。」と言っていたのを思い出しました。私達が北研病院に入職した際にも、副院長から、「これしか出せないからバイトを探す様に。」と念を押されました。そこで美容外科のバイトを探しました。U部長と二人で、先ず知り合いのクリニックにバイトに行きました。そこは、十仁出身のチェーン店系でしたが、独立採算なので雇ってくれたのです。二人で1年程隔週で高崎まで通いましたが、なんか違うなという感じで止めました。その時、卒業時に十仁に就職しなくてよかったと思いました。これが私の美容外科他流試合の始まりです。もっとも土曜日午後は、父のところでもバイトしました。他にU部長が持って来た東京駅での大阪のOgクリニックの支店出のバイトが月に2回しました。これも余り会わなくて1年で止めました。どちらも非形成外科系ですから、当然でしたが、勉強にはなりました。こんなやり方でもやっていけるんだな。との感慨が焼き付きました。
北研病院2年目つまり私の10年次になり、またバイト先を探す必要性が生じました。今度は自分で探してみました。当時、美容外科の求人広告は医事新報の二ページ程に、ぎっしり並んでいました。しかもすごい待遇ですよ!。そこで銀座院でバイトしている間に、片っ端から電話してみました。父も面白がって「他流試合をどんどんして、新しい美容整形いや美容外科を見て来たらいいし、取り入れて見なさい。」なんて勝手なことを言うし、何故銀座からなのかというと、むしろ名乗る事が意味があるのです。電話して名乗ると、知っている人は多いものの、大チェーンのクリニックでは求人は担当者が対応するので知らない。そんなところは、ビジネス的であると読めるからむしろこちらからお断りします。例えば当時売り上げ一番のKanaクリや二番のSina.美容外科は縁がなかったです。逆に名乗ると察知して、「盗みに来るんでしょう?」とかいってスパイ扱いするクリニックもありました。そこでその後はこちらから、「勉強に行きたいと思います。父も賛成しています。」と言う事にしました。すると警戒が無くなって「一度見に来て下さい。」との事になり、いくつか見に行った後に、コムロに辿り着くと「ぜひ来て下さい!」と迎えられました。そこには多くの形成外科医がバイトしていまいた。コムロ先生は昭和医大の藤が丘病院の外科出身ですが、はじめは胸の手術で形成外科部長とタッグを組み始め、そのうち教えを請う様になったと言うことです。その後は彼の有名な問題児の日美(覚えていますか?、金塊を持って逃げた奴です。)でも働いた事があります。ですが、形成外科医でありながら形成外科医療の理解が深いのです。その頃コムロでバイトしていた形成外科医はいまや、リッツやベリテで頑張っている一流の形成外科出身の美容外科医です。他にも沢山輩出しています。
コムロには、10年次から行きました。週に1日半から2日も出られました。当時流行っていて、患者さんがひっきりなしでした。形成外科医が担当するべき症例をちゃんと取って置いてくれます。上下眼瞼の手術や、鼻の手術。胸は最初はコムロ先生と一緒に左右担当したり、脂肪吸引も部分から、他部位へとレパートリーを増やしてくれました。結局3年間通いました。ここでの臨床経験は私を育ててくれたので、今でも感謝しています。先日久し振りに小室先生に会いましたが、まだ頑張っているので感激しました。
他にもバイトしました。北里研究所病院泌尿器科医長の先生が、男物クリニックをしていて隔週で手伝いました。男ですから、私達はわきがの手術も開拓して、一日3例もしました。歩合もついたので結構なバイトになりましたが、勉強にはならなかったです。
ところで、銀座では何をしたのか?。眼瞼の埋没法は父は古いので下手です。私がバイトで身に付けた道具や技術。要するに当時の美容外科の水準を取り入れて、銀座でも試用する様になりました。銀座でも埋没法の重瞼術は私の専売になり、鼻の手術も軟骨移植を含めて、プロテーシスにしてもより軽い手術を目にして、取り入れました。別にスパイしたつもりは無かったのですが、結果として覚えた方法を利用させてもらったので感謝しています。そういう意味ではコムロで修行した形成外科医が開業して、形成外科出身の美容外科医としては上位にあるのは当然です。
さて父との邂逅が深くなりました。私がバイトすれば非形成外科医に近づきます。一部の形成外科医とも深い仲になります。しかしこうしているうちに形成外科出身医と非形成外科医の美容外科医のせめぎ合いはより激しさを増しています。その中で私と父は立場を会わせていきます。”キャッチフレーズは、「二つの美容外科学会、合体させようか?、その為にはそれぞれが結束しないとならない。」と無理な解釈。さらに父はコウモリぶりを増していくのでした。次回そこからですが、北研での父との話題も出ます。