この数種間に症例提示の承諾を頂ける患者さんが頻出されました。目頭切開が続いています。要するに症例提示を見て「私も私も!」と芋づる式に希望されるからでしょう。良好な形態を作れて経過を正直に提示して来たからと自負しています。皆さんに悦んで頂いているので、私達としても嬉しい限りです。
症例の2週間目の提示を致します。
上左が術前、上右が術直後です。
上左が1週間の抜糸直後、上右が2週間で経過を見せて頂きました。
画像上術後しばらくは開瞼が不良とに写っています。痛いのでしょうか?、突っ張るのでしょうか?。目頭切開=蒙古襞の拘縮解除術は、開瞼を阻害する皮膚の突っ張りを無くす事が主目的であると、これまで何度も言い続けてきました。なのに、術直後は腫脹と創の痛みで開き
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カテゴリー別アーカイブ: 美学
美容医療の神髄41-歴史的経緯第41話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科医。自分史話へ”その18”
8年次の私は(まだまだ20年前の話です。)、茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科医長として、待望の4年生の医師と共に診療に没頭します。待望とは?、そりゃそうです。レジデント教育の機会であり、認定医試験も終わったから余裕ができるし、下がいれば自由な時間が作れるからアルバイトも出来る。大学医局が人事配分を決定するのは前年の12月ですが、その時点は学会認定医取得前ですが、見切り発進で研修医の派遣が決定されました。しかし同時に、学会の認定医認定施設も申請認可されないとならなくなります。研修医は認定施設か関連施設で研修しないと、研修の年次数にカウントされないためまずいことになるからです。その為に症例数の閾が設定されます。だから、より張り切って診療して行きます。
イニシャルを出しますと、Ym先生が来る事に
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美容医療の神髄40-歴史的経緯第40話- ”口頭伝承”:父は美容整形屋、私は形成外科医。自分史話へ”その17”
私の歴史でなく、美容医療の歴史を書いてきたはずですが、私の医師7年生の時点で形外科医として深く入れ込み始めた話が続いています。繰り返しになりますが、その後美容外科医療にも入れ込んでいくに当たって、形成外科医としてのスタンスが有用性を表してきます。9年生からはさらに美容外科にも深く携わります。6年目からの銀座美容外科でのお手伝いから、そこを足場にいくつもの美容外科院に修行に行くことになるのです。とはいえ、7年次8年次の茅ヶ崎徳洲会総合病院形成外科での診療、教育、認定医試験の日々は、今でも楽しく思い起こせます。引き続き時計を戻して7年次8年次の話題を続けます。
先週は日本形成外科学会認定医試験のために提出した詳細な手術10症例の説明をしました。形成外科医療の基本の説明になったと思います。病
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美容医療の神髄37-歴史的経緯第37話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その14
1年次から6年次を北里大学形成外科医局員として研修をした後、7年次からは北里大学形成外科医局員のスタッフとして、大学での研究をする者は少なく、多くが一般病院に出向しました。私が出向した茅ヶ崎徳洲会総合病院は、形成外科を4年前に開設して、しょぼしょぼ診療していました。でもそれではつまらないので、私はなんとか診療実績を伸ばそうと目論みました。その要因は臨床病院としての徳洲会の特質や姿勢が、元来乗せられやすい私をその気にさせたからでしょう。この後、茅ヶ崎徳洲会総合病院に2年+1年。大和徳洲会病院に2年出向します。医局在籍15年、スタッフとしては9年のうちトータルで5年です。そこで、先ずはその徳洲会グループの沿革と私の印象を紹介しましょう。
みなさん最近話題に挙がったのを覚えていますよね。その
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美容医療の神髄36-歴史的経緯第36話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その13
日本美容医療協会の発足に関わるメンバーは、いろんなスタンスから来ました。
中心は形成外科、それも警察病院出身の開業医と、少なくとも形成外科から美容外科に進んだ開業医。彼等に近い大学形成外科教授陣。
そしてただ一人、十仁病院のUm院長は非形成外科医で、いわゆる敵側ですが、`裏側の学会`という言い方もされました。裏の世界みたいで、893みたいですね。そういえば私も子供の頃「やくざ医師(薬剤師をもじった。)の子。」と云われた者です。何故彼が居たのかは後に説明します。
さて二つの足場がある中で、両側に足を掛けている者も居ました。二股です。日本美容外科学会JSAPSは昭和53年の美容外科標榜時にはJSASと同時に発足しています。(それまでも似た内容の団体はありました。)父は二つとも加
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