長らく中断していました美容医療の歴史。何故中断していたのかというと、美容医療の歴史を、私なりに書き連ねてきたこのブログで、やっと自分史の時代に来た時、自我が先行していしまい、自分の経験を詳述したくなってしまいました。前2回は卒後教育と認定医の説明に費やしてしまいました。反省して再開します。
昭和51年に形成外科が、昭和53年に美容外科が標榜され、美容外科においてはJSAPSとJSASの二つの日本美容外科学会が存在する事になってしまった時から、公的に美容外科が認知されたののにも関わらず、混沌とした戦乱の時代、競争のビジネスの時代になっていったのです。この結果美容医療は荒廃していったといえます。
この頃何が起きたかと思い返してみると、美容外科のビジネス化の萌芽と、医学的向上性の萌芽が対立軸として有意性を得ようとする時代を迎えます。
昭和50年代は、バブル前=経済成長はとっくに停滞期に入っているのに、政府の失策でバブル経済期に突入していくです。現代から振り返ると、昭和50年代は乗せられていただけの、実体のない経済状況であったと言われています(今のアベノミクスも同様と予想されているのに、国民は歴史に学ぶ能力が無いから、化けの皮が剥がれないで奈落の底に向かっています。)その昭和50年代のイケイケムードの中で形成外科と美容外科が認可されたのは、バブルの象徴ですね。
私は、昭和50年に慶応義塾高校に入学しました。頭がいい学生が集まっている筈でしたが、学生の能力より、親の地位がものをいっている様に感じました。ダレダレ、、、
美容外科の世界では、標榜認可の上、バブルに向かって正々堂々と経済論理での診療方針に転換し始めます。標榜可能となった美容外科医は、広告を展開し始めます。各広告媒体も堂々と美容外科医療機関から広告を取れる様になるのです。その結果美容外科医療のマーケット規模の拡大と広告規模の拡大が同時進行する事になるのは、経済論理からして、自動的です。
丁度、昭和50年代に開業を目論んだ”美容外科”クリニックとして、Tクリニックが中心となります。従来からの美容整形医が、美容外科を標榜して社会から認知される様になったものも多くいます。しかし、T先生は、新しいビジネスモデルを見出しました。
「新幹線整形です。」父が銘じました。詳しくは次回から再開します。