Tクリニックは、T先生が開業した美容外科医院ですが、彼が創始したのではありません。その点では私や多くの美容外科医と同じです。そこには、標榜科目である美容外科や形成外科を包含する根源的な美容医療を求めてきた哲学があったと言えます。いや、あったらいいなと思います。
Tクリニックは昭和51年に形成外科、昭和53年に美容外科が国家から標榜を認められる前から存在していました。それまで標榜が認められずに美容整形を標榜?していた輩と同じです。もう一度言います。美容整形という科目は、医療機関の看板に掲げてはいけないのです。法律で決まった科目しか掲げられません。マスコミが使うのは勝手です。判りやすいからで、法律を遵守しなくても罰は受けないからです。放送法には、意見は政治的に左右されない様に定められていてしかも、言葉の規制は差別用語等の甘い制限しか記載されていないのです。もちろん最近の国営放送会長の政治的暴走的発現の方は糾弾されるべきですが。
脱線してしまいました。美容整形を名乗っていた(標榜は出来ないから、看板に小さく書いていた。)輩(もちろん父も含む。)が、標榜後いやいや看板を架け替えていったのと違い、Tクリニックは即座に標榜しました。何故かというとそこに二つの意味があります。
そもそも、T先生はS大学医学部を卒業後、当時既に大学に形成外科診療斑があったにも関わらず、美容整形は整形外科の一部だとの考えから、整形外科に入局(就職)しました。J病院のU院長もK大の整形外科出身です。当時まだ、形成外科が正式な科目でない為に、S大学でも形成外科は標榜されず、整形外科の中で診療斑として半独立組織だったのです。だからT先生が整形外科に入局したのかは判りませんが、その中で形成外科と美容整形の棲み分け政策に関与していたのは明らかです。S大学形成外科のO教授は、当時日本形成外科学会の会長で「形成外科は、美容整形をしません。」と、政府に上申した方です。学会誌にも載っています。
だから一つは整形外科に所属していながら、標榜を勝ち取った形成外科医側の政治的意思を汲んでいた。いや、むしろ仕組んでいた側だったからです。彼は、整形外科に所属はしていましたが、形成外科にも関与していました。O先生はバイトとしてTクリニックで美容医療手術をしに行っていました。当時まだ少ない美容医療症例を私立クリニックでこなし、稼いでいたのです。
さらに添えると、逆に笑えるのですが、O先生が上梓した私もバイブルの様に読みまくった「形成外科手術」という分厚い本があるのですが、この中の症例の多くはT病院での症例だと、T先生が後年ばらしました。後任のH教授は先代の助手として鞄持ちしていたともばらしました。その辺の事は後々もう一度触れます。
もう一つはその結果国民から、認知というか、以前よりいかがわしい物と見られなくなる事を期待できるから、美容外科を標榜をする事で、市井で鼻つまみものでなくなる高揚感があったのでしょう。もちろんその結果としての経済的利得も求めていた筈です。それが、次の考え方に繋がります。
「新幹線整形」と父が呼びました。昭和53年は私が慶応高校を卒業して、北里大学医学部に入る前に浪人していた頃でした。その時Tクリニックは名古屋に開業していたのですが、大阪にも支店を作りました。その後東京の赤坂にも支店を出します。さてT先生は複数院で診療を始めました。えエ~どうやって?、と思いますよね。だから「新幹線」です。
さすがに当時は、ヘリコプターは持っていません。現在はS美容外科はプライベートジェットで飛び回っていますよね。T先生は当時支院を掛け持ちで診療する為、新幹線で走り回っていました。日替わりで東京、大阪、名古屋で手術するのです。名古屋と大阪なら1時間くらいですから、午前と午後で二院回る事もあった様です。
もちろん、診療所(医院=クリニック)は、院長を登録しなければならなく、一院しか出来ないので、誰かに頼んでいました。名義貸しということです。じゃあ違う医師が診療しているじゃないか?、ここが新手です。標榜が出来る様になった美容外科は広告が出来ます。美容外科某クリニックとして、全国に支店があってもまとめて広告ページに掲載します。前にも述べたと思いますが、医療広告は、診療内容を詳しく掲載できません。そこで、書籍の広告を主体とした形で診療内容を細かく記載し、広告を認められた医院の所在等の掲載を執筆者の連絡先として載せる形を取ります。
そして、簡単な診療以外の多くの手術を複数院でT先生はこなすのです。その後、症例が増えて行くと各院の医師(名義貸し院長)にも手術をさせて行く様になりますが、T院長とは料金を差をつけてより高額に設定して行く様になります。このビジネスモデルは、T先生が発祥ではありません。それまでも多店舗展開の美容整形院はありました。しかし、広告が表立って出来る様になった=美容外科の標榜後に派手に始めたのがTクリニックで、成功を納めたのは知る人ぞ知るです。
美容外科を標榜した表立っての広告&多店舗展開=美容医療のビジネス化。その基盤としては、資産もありました。彼は、愛知県で代々続く病院で育ちました。当然資産もありました。広告に経済力を投入できたのもその為でしょう。広告にも、多店舗展開にも、経済力を要します。もう一度反芻すると、広告に資産を投入する時、その見返りが多店舗展開なら院数に応じて倍増するのです。医療のクライアントは出来るだけ近傍で受けたいのです。テレビの萌芽期にはコマーシャルを打てば全国から評判だと勘違いした患者が来院したのですが、いつまでも続きません。桁違いに低い神媒体の広告でも認知はより濃厚に及びますが、裾野の層が増えれば、出来れば近傍で掛かりたいと望む率が高くなります。そこで安くても全国紙の書籍での広告を出し、それの受け皿として多店舗展開をすれば同じ広告額で院数に応じた倍数の売り上げが得られるという訳です。
ここで国民は二つの疑問を持つかも知れません。多店舗展開でも何でも症例が多いのはいい医療機関ではないか?。多店舗展開する様な医療機関は広告にある様ないい内容に責任を持っているのだから、信頼できるのではないか?。二点とも大間違いです。これまで述べてきた様に、美容医療は一人として同じ形態でない個人を、患者さんの社会的背景も含めてバリエーションのある、ゴールに向かって施すのです。だから全く同一な方向性はありません。だから、症例を重ねても、その度に検討して行かなければ、患者さんに取っての本当に良好な結果を得られません。多店舗展開していると画一的な診療方針になりますから、診療内容が向上しません。そして、もう一つ広告は信用できません。あくまでも広告は提示するだけです。誘因する為ですから良結果しか提示しません。方法論を述べていても結果での誘引する様に提示します。そして、広告を見た患者さんは画一的な結果しか期待しないので、多様な状態を多様な施術で対応しなければならない筈なのに患者さんが理解せずに望まないのです。もちろん、診察時に擦り合わせなんかしません。押しつけです。そして、広告に違う結果を呈しても、媒体はもちろん、広告主も責任は取りません。ましてや、そう訴える患者さんも少ないのが、美容医療の特徴ですよね。美容医療においては結果の相違は、主観的で抽象的だから評価が難しいので、少なくても広告に対する問題視などは勝ち目がないのは、美容医療に限らない事ですよね。
美容外科標榜と、多店舗展開を本道としたTクリニックが使った方法論が成功したですが、私と父は開業医としてほぞを噛んだものです。このビジネスモデルに上記の様な不当性を感じていた多くの美容医療者=形成外科を標榜していた美容外科医も、美容整形から美容外科に標榜した医師も、問題点を国民に提出して行こうと努力して行き、戦闘状態になりました。
しかし、新幹線整形に父はほれた様でした。この回、長々とグダグダと述べてしまいましたが、自分史に戻ってT先生を始めとしたビジネスをどう捉えていたかを次回述べて行き、その先の戦闘状態の記述に進みたいと思います。