2013 . 11 . 8

美容医療の神髄Ⅴ-歴史的経緯第四話- ”口頭伝承話”その4

昭和50年代の形成外科と美容外科の標榜に伴い、爆発的に参入者が増加するのですが、増加だけでなく、表面化でもあるのです。

それまでも、広告は容認されていましたが、標榜はあくまでも整形外科で、美容整形と看板に書いていても咎められなかったようです。そもそも、整形外科とはなにかも一般人には認識されていなかった時代です。昭和51年の形成外科標榜に続き、昭和53年の美容外科標榜後、どちらも国が認定した科目であり、その際マスコミでニュースにもなったので、美容外科や形成外科を標榜し、広告宣伝する診療所が林立し始めます。

これまでの美容整形開業医は、仕方なく美容外科に標榜を変えました。父が開業していた銀座整形は、階下に美容整形と看板を掲げていて、愛着のあった父は昭和53年以降もそのまま使っていました。半年くらいして、保健所が見に来て、美容整形はいけないと謂われました。美容の字を紙を貼って隠して、「これでいいですね。」と言っては、保健所の役人が帰ったら剥がす。半月後また注意を受ける。これを1年くらい繰り返した後。さすがに銀座美容外科医院に改称し標榜しました。他も同じようなことしていたそうです。

このころ、大学や警察病院(昭和31年からの日本の形成外科の発祥)で形成外科を研修したり、美容整形開業医でも、形成外科を学んだ数少ない医師が、形成外科と美容外科を標榜して、徐々に開業し始めました。但し施設数は少なく、患者に対する啓蒙(広告宣伝)は全く稚拙で、患者数のシェアーは低かったようです。でも、標榜がもたらした変化は、そんなことでは済まなかったのです。

先ず、広告宣伝が公然に許容されます。それまでも、テレビで「美容整形、〇〇整形・・」と流す施設はありました。もちろん当局からの改善命令もありました。しかも、前にも述べたように、美容整形は胡散臭いとの常識は人々の中に刻まれていました。そこで、美容外科の標榜認可は、国が認めた科目名での広告宣伝を公然と行えるようになった訳で、開業医にとっては、広告宣伝戦争の時代に入ったということはいいことでもあり、つらい時代に入ったともいえたのです。

そもそも、医療は宣伝を原則認められていません。つまり、患者(客)を誘引することは、経済性原理をそこに求めることになるので、医療の安全性を毀損する可能性があるとの観点です。広告とは、その医療機関の存在を一般に認知させるためであり、医療のフリーアクセス原理からして、必要な項目だけ掲示していいというものです。一般医療機関の広告は、看板、駅看板、電柱看板等の案内表示程度がほとんどでした。具体的には、医療機関名、標榜科目、住所等の案内に限られています。名刺広告とも呼ばれていました。内科、外科、等々の医療機関は、地域に根差しているので、これで十分だったのです。対象が地域なら、内容は評判や口コミで伝わるからです。

美容外科や形成外科の標榜が認められた当初は、開業医はそんな医療法に準拠した広告を、堰を切ったように載せ始めました。当時の主媒体は雑誌特に女性誌でした。TVCMも名刺に近いものです。美容外科は患者さんが隠したがるので、口コミは広がりにくく、また患者密度が高くないので地域だけの対象では成り立たなかったからです。ところが、逆に言えば、広い地域を対象にした広告では、差別化が図れないので広告の意味=費用対効果が得られないと考えるのは当然です。

そこでまず、書籍型広告宣伝が発明されました。誰が考えたのかは知りません。たぶん電通かなんかの代理店の発案でしょう。本は自費出版でも、書籍として登録すれば、広告が認められます。当たり前です。医療機関、特に美容外科医は従来から、啓蒙のためとして本を書く習慣がありました。父も何冊も書いています。私も5冊あります。これを患者さんや知り合いにあげると、さすがに口コミ効果が少しはあるためでした。しかし、書籍型美容外科広告は違います。書籍に診療内容や料金、症例写真を掲載し、これを広告する形をとります。順法です。そして、本の執筆者を医療機関名やその院長とする。これも順法です。この方法が、女性雑誌を埋め尽くしました。但し、明らかに書籍の紹介の面を逸脱し、医療機関の広告が大部分を占める違法性あるものも見られるようになりました。とにかく、ここに美容外科の世界は広告宣伝戦争の時代に入ったのです。

同時に進行したのが、多店舗展開です。雑誌はいやでも全国に発行されます。かといって、患者はわざわざ遠くからは来ません。広告費が損した気がするのは、医療機関経営者からすれば当然です。そこで支店を出したくなるのは資本主義の論理からして当然です。しかし考えてみたらヤバい。宣伝している内容は、一人の医者が、行う診療内容を網羅しているはず、ほかの医者に教えても全く同レベルの医療ができる訳はないのです。前に私は、医療は知識(頭と目と手が)行うと述べましたが、経験値が内容の良しあしを決めるとも述べました。美容外科医療機関が支院を出した際に受け皿は誰かで全然違う医療になるはずなのに、一つの内容の広告宣伝が多店舗に患者を呼ぶのは、なんかおかしくありませんか?。だから、形態は二つあります。

一人の医者が何カ所かの支院を日替わりで、移動して診療する。東京と名古屋、大阪なんてザラ、北海道や九州だって飛行機で行き来するタフな美容外科医がいました。Dr.Tが始めたと考えられますが、ちょうど私が医学部に入ったのが昭和55年で標榜のころ、父と話すと「新幹線整形と呼ぼう。」「お前も早く医者になって二人で行き来しよう。」とか言ってました。しかし私は、医師になってから、新幹線ではなく、飛行機で地方診療することに慣れました。それはさておき、平成に入ってからも同様の、頑張る医者は少なからずいました。すごい人は午前大阪、午後東京で診療していたKクリニックのDr.T.や今はA美容外科のDr.O.二人とも体力の限りを尽くして稼いでいました。毎日新幹線の弁当ばかり食べていたために、高血圧、糖尿病になったと自分で言ってました。今はさすがに、関西だけを行き来しているそうです。他にもTクリニックのDr.T.はヘリコプターで、S美容外科の院長はセスナ機なんかで、支店を行き来しています。しかし、彼らは、移動に体力を使って、しかも限られた時間で、治療(診察は死因の常勤医がしておくので、院長は手術だけのことが多い。)のレベルを保てるのでしょうか?。頭の中はくたくたになっても、心臓には毛が生えているのでしょうね。

もう一つの全国展開は、各支院に医師を雇う方法。経験がある程度ある美容外科医を地方配置する方法なら、まあまあレベルは保てるでしょう。でもやはり医師によって差はあるのに、一種類の広告を打つので、トラブルはあるようです。それにいまだに、ちゃんとしたレベルの美容外科医は数少ないので、数か所が限界の様です。場合によっては、チェーン店と言っても独立採算で、広告料だけ分担している団体?もありました。当然方針はバラバラです。そこで、Sや今はなきKが始めたのが、素人からの養成法。何度も言いますが、昨日まで内科や麻酔科をしていても今日から美容外科診療をできるのが、危険な日本国の医療制度なのですから。養成と言っても数か月程度本院で教える。ちなみに両チェーン店とも、他院からベテランを雇い、トレーナーのような役をさせていました。こうして付け焼刃で促成栽培で養成し、支院に配します。難しい手術は、巡回するハイレベルの医師がこなす場合もあるようです。こうして、どんどん支院を作れます。全国30院以上という規模です。通常この場合は直営チェーン形態の様です。

話しを戻すと、広告展開と多店舗展開は同時進行したのですが、美容外科、形成外科の標榜後に加速的に進行しました。一時は女性誌のどのページにも美容外科の広告宣伝が載り、見開きで右側に書籍型広告(チェーン店名は小さく順法)、左側にチェーン各院の名刺型広告という効率のいいやり方も横行してました。しかし、それだけ広告宣伝合戦になるとコストが圧迫してきます。その分、医師のレベルダウンを免れません。大規模チェーンになると、例えばKクリニックの院長に会った際に豪語していましたが、「30店舗で月に15億円売り上げるのだが、広告にそのうちの半分が持って行かれるんですよ。」異常な世界になっていました。そのうちKクリニックは電通管理となり、縮小していきました。

今回は、昭和51年の形成外科、昭和53年の美容外科の標榜後に生じた広告宣伝合戦とそれに伴う資本主義原理からの、多店舗展開の詳細についての話題に終始しました。次回は、この流れに対する反応、言ってみれば、美容医療の適正化に向けた動きについて述べたいと思います。

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