2015 . 6 . 11

美容医療の神髄⒔-歴史的経緯第13話- ”口頭伝承話”その13

前回日本美容医療協会の発足の話しで中断しましたが、この前に学生時代の話しに戻します。とはいっても、私は北里大学に入りましたから、相模原の田舎に引っ込んでしまい。銀座からは遠方となり、美容医療に携わる父と会い情報交換する機会も少なくなっていました。めげずに父は、私にゴルフを指南し、同行を求める事が増えました。その道中やプレー中に少なからずの会話を交わし、美容医療の世界に付いて様々な議論し、父は美容医療の理念を私に植え付けていきました。

この時代は、これまでにも述べました如く、美容外科、美容整形、形成外科等の美容医療の斯界での転換点となる様々な変動が進んでいる時代でした。もう一度時計を戻しますと、昭和51年に形成外科が標榜され、昭和53年に美容外科が標榜されます。私が大学に入ったのは昭和55年ですから、美容医療の世界で一般化と制度化、そして反目し合う二つの立場が蠢動し始めた時代です。

美容外科が標榜科目となったため、それまで日陰の立場だった美容整形かられっきとした科目を名乗れる様になり、コマーシャリズムにも堂々と進出し始めました。実際はそれまでもコマーシャルしていました。銀座整形はCMを流していました。番組出演の機会にも少なからず恵まれていました。11PMなんかは常連でしたし、今も続く笑点にも、美容コーナーがありました。他院も争う様に宣伝していました。笑えるのは、十仁病院は、葉山マリーナに名前の入った大きなセールの付いたクルーザーをいつも浮かべていて広告していました。ちなみに、日本中の電柱に十仁病院の広告が貼ってあって、私は幼少時に父にこれ何?と聴いてみたことがあります。こいつ友達だと答えながら、苦々しい父の顔を覚えています。何しろ医学部の後輩ですからね。

昭和53年から、美容外科なんとかクリニックが、CMや、雑誌広告を大々的に始めたのは事実です。やはり標榜科目となったから、広告媒体も受け易くなったのです。その後数年のうちに、女性週刊誌のページは美容外科広告で占められる様になりました。この頃に一気に美容外科医療機関が増えたのは、広告展開戦争化が進んだからですが、同時に多店舗化も進みました。つまり、宣伝広告量が増えて、一店舗で診療し稼ぐよりも、多店舗で全国的に稼ぐことで費用隊効果を求めたのです。もちろん医者を始めスタッフが要りますが、政府が医師不足に対して昭和45年から大学医学部を順次増やした結果として、美容医療への医師の参入も増えたのです。さらに、それまで美容整形で儲けていたいくつかの医院は、複数の医師を雇って仕込んで患者をこなしていましたから、そのうちの多くが、独立して美容外科における広告展開と多店舗展開のビジネスモデルに参入したのです。例としては十仁病院出身者はS美容外科、中央グループ等々。その後脱税と女性暴行で有名になった日美整形からは、関西のO先生やT先生が輩出して、今も現役です。他にもその後、多店舗展開クリニックから独立していき、新たにクリニックグループが出来ていきます。例えば城本はTクリニック出身ですし、さらに独立が進んで、SMBCはS美容外科出身です。

こうなると、美容外科の世界では、広告展開とその受け皿としての多店舗展開が常識化してくることになります。父は「新幹線整形っていうんだな。早くお前も一人前になって、親子で2店舗しようぜ!」っと、私をせかしました。まだ医学生なのに。

さてもう一方のスタンス=形成外科標榜医は、形成外科と美容外科は車の両輪で、美容外科医は形成外科医であるべきだ。という説を唱え始めます。巷間美容整形なるものは邪道で、ひどいときは偽医者扱いまでしていたのにです。昭和51年に形成外科が標榜認可される際に、当時の学会長のS大学のO教授は「形成外科は美容整形はしない。」と政府に誓約しました。ところがその後美容整形医達が巻き返し、標榜科目を得ようとしました。すると、形成外科医達はてのひらを返し、美容整形は整形外科が許さない筈だと言い出しました。形成外科医は大学病院等がテリトリーですから、整形外科医とも懇意にしているから、反対運動に際して根回しが可能だったからでしょう。そして、形成外科医達も標榜検討の下折衝に加わっていきました。2年前には美容はしないと言っていたくせに。結局土壇場で折衷案として美容外科という標榜科目名が認可されました。

何故こんな汚い対立が生じたのか?。一つには、美容整形医は自己流で、非学問的だったのに、儲っていたから。高度成長期の波に乗っていただけなのに。もう一つのグループは戦後の形成外科の輸入と同時に美容医療も同時に輸入してきたつもりで、多くが欧米で学んできたから、アカデミックな気分で、一部の医師が、美容医療の両輪として形成外科と整容外科と名乗って診療してきたのです。具体的には、東京警察病院が東大のサテライトとして形成外科のメッカとなり、同時に美容医療も進めました。少なからずの形成外科医が、美容整形ならぬ整容外科を診療していました。出身者が徐々に開業していきました。ちなみに東京警察病院形成外科は、大森清一先生が解説したので、形成外科出身の美容医療グループは大森派と呼ばれていました。もう一方が十仁派と呼ばれるのは当然です。一時は十仁派の学会は裏の学会と揶揄されていました。

結果として、昭和53年に美容外科が標榜認可されたことは良かったとはいえます。父は「俺は美容整形医だ!。」と言い募りましたが、看板の標榜で保健所と再三やり合った件は前にも紹介しましたが、今となっては掛け合い漫才みたいな笑い話でした。

自分の口頭伝承で重要な問題は、父美容整形開業医で、形成外科医療の経験はないから、十仁派の重鎮であったこと、私が北里大学医学部在学中に、さらに両派の抗争が激化したことです。ところで北里大学は昭和45年の大学開設直後に形成外科を開設して、塩谷教授が就任しました。昭和53年の美容外科標榜直後に、美容外科診療も大学病院内で始めた塩谷先生は大森派の美容分野ではトップレベルとされていました。当時はまだ大学病院での美容外科診療どころか、形成外科診療している大学さえも数える程しかなかったからです。

大学4年次に、形成外科の講義が数コマありました。父から塩谷教授のスタンスは教えられていたし、形成外科の学問とは何たるかを、調べて来て欲しいとも依頼されました。講義をカセットテープに録音して父に渡しました。だからといって父からまだ、形成外科と美容外科の選択、ましてや大森派がいいか、十仁派がいいかの意見は聞かされませんでした。

実は大森派=大学形成外科出身の美容外科開業医と、十仁派=美容整形時代からの開業医は学会単位では反目していたのですが、開業医同士では一部では親睦していこうと機運も生じて来たのです。抗争に疲れたからでもありますが、もう一つ単独開業医が、広告戦略&多店舗展開のチェーン店系に押され始めて来たから個人開業医が集まりだしたのです。現在の存在する臨形です。次回はその話から入ります。