2014 . 3 . 12

美容医療の神髄Ⅸ-歴史的経緯第8話- ”口頭伝承話”その8

「新幹線整形」に対して父と私は何度も細かく検討し、一つの方法論を見出して行ったものです。

自分史として、この時(昭和53年前後)の会話は、もう36年以上前ですが重要点は覚えています。前回の記述は、60%会話の記憶で、残りはその後の動勢に対する認識が反映した内容です。

とにかく父が言った今も言葉が明瞭に鳴るほど覚えているのは「早くお前も美容整形を出来る様になって二人で二院で新幹線整形しようぜ。」です。当時私は高校卒業時で、医学部にも入る前、その後医学部に入ってからも何回も言われました。

医師になる前の昭和60年代にもよく言われました。でもー、形成外科で勉強したいな。いきなり父と二人で診療できるのー?。「新幹線整形」の夢は潰えて行ったのでありました。その間にはさらなる新しいモデルが席巻したのです。父等開業医は、汲みしながらも反発し、我々形成外科サイドの美容外科を志す医師は糾弾姿勢を強めて行きました。

新幹線整形は、美容外科医一人で複数院で診療(=美容医療では、手術が主となる。)を行うために大都市間を飛び回ることです。美容外科患者さんは広告宣伝を見て、来院するのでした。当時の媒体は紙面が主です。バブル期まではテレビは高すぎました。紙の中でも、女性向け雑誌が効果あるのは当然です。全国に発行されています。全国に出ていて、患者さんが受診するなら、近くにあった方がいいので、複数院を受け皿にする方が、トータルの患者さんが増える訳です。そして、新幹線整形が利潤を高めたのです。美容外科医師が居ない日は、誰でもいいから医師を雇って処置や美容皮膚科的医療をしているか、休診にしています。このやりかたは、T先生に限らず、他の美容外科医も利用しました。昭和60年代に入ると、いくつも登場します。特に関西をベースにするクリニックが東京進出を目指しました。今もある、A美容外科のO先生や、クリニックのT先生は東京名古屋大阪を行き来していました。余談ですが、今から、15年位前に脱税して金塊を積んで船で逃げた日美のN医師を覚えていますよね。上の二人はそこでバイトしていたのですが、さもありなんですね。それはそれとして、新幹線整形は、一人で行き来するので、限界があります。体力的にも、肉体的にも疲労困憊するそうです。当然医療の質が落ちてきます。ある40代の先生は、「午前は名古屋で、新幹線に飛び乗って午後は東京で手術。週に3日はこんな生活で疲れましたよ。それに新幹線の中で味の濃い弁当ばっかり食べていたので、高血圧になっちゃいましたよ。」と、私にぼやいていました。ちなみに現在は関西にこもって、関西地方を特急で飛び回っているそうです。そして新幹線整形は、質と量ともに限界を生じます。受け皿が足りなくなってくるのです。そこで、雇って診療させることを考える様になります。

ここからはチェーン店展開方式です。フランチャイズ方式もあります。さらに、問題点が生じる様になりました。開業医や、形成外科出身の美容外科医は、正統派として、事あるごとに非難態勢に入りました。

難しい問題なので、次回詳しく述べたいと思います。

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