2015 . 7 . 22

美容医療の神髄16-歴史的経緯第16話- ”口頭伝承話”その16

前回、私が北里大学医学部を卒業するのは昭和61年ですが、昭和53年に美容外科が標榜科目となってからの数年で、美容外科界の情勢が変わっていきました。と話し始め、標榜の結果の変遷として、1、美容外科が標榜科目となったので、雑誌を始めとして宣伝広告が大手を振って行われる様になった。2、宣伝広告を全国に出すなら、東京を始めとした中央で一開業医でいるより、地方に支院を作り受け皿とし、売り上げを増やしたほうがプラスな訳で、チェーン店が林立した。3、形成外科系で美容外科診療をする開業医は、一人開業医がほとんどだったが、徐々に増えていった。4、形成外科を研修していない美容整形時代からの開業医でチェーン店化しなかった開業医もかなり残った。と説明を始めた後に、JSAPSとJSASの対立、開業医とチェーン店の関係のついて書き出したのですが、まずチェーン店の勃興についてから、入りました。

J病院から初まり、Tクリニックが乗り、派生してS美容外科が興り、他にもチェーン店がいくつも独立していきました。今回は当時最大のKクリについてから話し始めます。

Kクリニックはその名の通り神奈川県の(あっいけねえ、イニシャルで書いたのになめばれちゃった)川崎の堀之内で開業しました。そこは、関東では有名な赤線(古い!)地区、当時はトルコ街(これも古い!)今もソープランド街です。 美容外科は儲かるからやってみようと思う輩は昔からいます。自費診療だから自由価格で、ぼったくりされても患者さんは人に言いたくないから、渋々払う。同じような社会的性格のものに`男もの`があります。いわゆる男性性器のクリニックです。場所がら流行ったようですし、花街には必要な性病科も兼ねていたようです。この分野も自費診療ですから、ぼったくりでも低級医療でもなんでもありで、経済性重視で資金をため込んだようです。彼らがどう考えているか解りませんが、美容外科開業の助走段階だったと言えますね。

突然話しの時代が戻りますが、実は父もそうでした。前にも書いたと思いますが、父は慶応の外科医局から北里研究所病院に出向していましたが、そこの皮膚科部長がサテライト開業して、銀座に診療所を持っていたそうです。父もバイトして手伝っていたそうですが、皮膚科部長が北里の院長になることになって、父に継承したそうです(当時でもさすがに二院の院長はできない)。こうして父は開業したのです。ところで皮膚科部長は、そこで何をしていたのかというと、毛生え薬を売っていたそうです。父曰く、「診療所をもらってから試してみたけど、ゼーンゼン効かない。あのころは、そんなインチキ毛生え薬なんて山ほどあったんだぜ!」だってぇ~。実は私がもの心ついたころ既に、父は30歳代で薄くなっていたのです。そんな訳で、父が昭和36年に銀座東一診療所(その頃当地は銀座東一丁目という地名)を開業した際、場所柄築地の海の男がぞろぞろ来院して、男物で流行ったそうです。当時の標榜科目は皮膚泌尿器科といいますから、うまく移行できたのです。もちろん整形外科も標榜して、美容整形も同時進行していきました。ちなみに十仁病院も、戦前は皮膚泌尿器科を標榜していて、戦後に美容整形に進んだという道の先駆者なんです。

余談が長くなってしましましたが、これも口承歴史です。 その意味で、昭和60年代になっても美容整形への進出の道筋は継承されていたということです。ほかにも中Oクリニックグループを始め、男物を土台にして伸ばした美容外科チェーン店はいくつかあります。

本題のKクリニックは、実は北里の先輩が創立しました。私より6学年上です。とはいっても小児科出身です。当時も今も、男物はワンパターン医療(というかビジネス)なので、他科からの参入やバイトが続いています。その後資金を得て、KクリニックのY院長は美容外科に進出しようと考えました。いきなり何も知らない彼が、どうやってできたのか?。そこは運がいいところで、十仁病院の副院長だったKa先生を引き抜いたのです。彼に美容外科の一から十までノウハウも伝授してもらい、診療もしてもらい、新たに医師を雇い、教育してもらったのです。もちろん医師は形成外科出身者以外で、新卒も採りました。S美容外科と双璧で、やはり医事新報に年俸2~4千万円求人広告を毎月掲載していました。私達は内情を知っているから、困ったもんだと思っていましたが、一般の医師からしてみれば、ビックリしながらおいしい話しでしょう。どんどん雇って、どんどん支院に送り、平成に入る頃には30店をゆうに越えていました。

後日、KクリニックのY院長と面談する機会がありました。前の北里大学形成外科のS教授(=院長は教え子でもあることになる。)と当時北里研究所病院形成外科・美容外科のU部長と部下である私との3人でKクリを見学した後、医師を教育してあげましょうかという話しでした。いわゆるコラボレーションですね。詳しい話しはその時代の説明時にしますが、一つだけ述べておくと、当時KクリのY院長は、売り上げを全30院で20億円と誇り、そのうち半分の10億円を広告費に支出していたと豪語していまいた。さすがの私達も開いた口が塞がらなかった、そのときのみんなの顔を思い出すと、いまでも笑ってしまいます。もちろんその瞬間、コラボの話しは断ち消えになりました。

J,T,S,K,中Oと来て、さらにTから派生した共R(みかわ)まで、さらにS美容外科から独立したSBCまで話そうと思ったのですが、きりがないのでチェーン店の紹介はまたにして、個人の口承歴史話に戻ります。時代は私の大学卒業前後、業界に参加した件で、臨形への参加と卒前の学会参加から再開します。