2016 . 1 . 29

美容医療の神髄36-歴史的経緯第36話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その13

日本美容医療協会の発足に関わるメンバーは、いろんなスタンスから来ました。

中心は形成外科、それも警察病院出身の開業医と、少なくとも形成外科から美容外科に進んだ開業医。彼等に近い大学形成外科教授陣。

そしてただ一人、十仁病院のUm院長は非形成外科医で、いわゆる敵側ですが、`裏側の学会`という言い方もされました。裏の世界みたいで、893みたいですね。そういえば私も子供の頃「やくざ医師(薬剤師をもじった。)の子。」と云われた者です。何故彼が居たのかは後に説明します。

さて二つの足場がある中で、両側に足を掛けている者も居ました。二股です。日本美容外科学会JSAPSは昭和53年の美容外科標榜時にはJSASと同時に発足しています。(それまでも似た内容の団体はありました。)父は二つとも加入しました。もちろん重鎮ですから、一応発足時会員です。当時から、コウモリと呼ばれていました。

さて私はというと、医師でなければ学会には加入出来ません。通常推薦が必要となります。北里大学医学部を卒業して北里大学形成外科に入局した私は、当然日本形成外科学会には入ります。日本美容外科学会JSAPSには、全新入医局員が加入するのではなく希望者だけでしたが、私は当然加入しました。何しろ学生時代にも、父に連れられて参加した事があるくらいです。でも当時は、JSAPSとJSASの両方に入るとまずい情勢でした。ばれたらJSAPSを退会させられると脅かされた事もありました。1998年に北里の名誉教授のS先生がJSAPSの学会講演で「これからは形成外科医も美容外科の分野にどんどん進出しよう。」と宣言するまでは、形成外科医と非形成外科医の美容外科医は対立の構図を崩せませんでした。私が、何となく許されてJSASに加入したのは、父が会長をした平成8年( 1996年)でした。つまり、日本美容医療協会発足時にはまだ、私は二股ではありませんでした。もっともUm先生は懇意にしていました。また別の意味ではすぐ二股になります。

他には二股の先生が何人か加入しました。JSAPSとJSASの重鎮の何人かです。父もその一人です。

つまりどのような参加者かというと、先ずはチェーン展開した医師は一人も居ません。そこが第一のポイントです。すると、非形成外科の美容外科医師の多くは排除されるのです。協会の趣旨は、美容外科医師の責任を持った診療を啓蒙する事にありますから、ビジネス的チェーン店が最大の敵です。

ですから、十仁のUm院長やわきが手術で有名な先生には、加入してもらったのです。ここが第二のポイントです。ある意味取り込む事で懐柔する策でもあったのでしょう。Um院長は12名の理事にも選任されました。実はこの策を後ろで糸を引いていたのは北里のS教授でした。美容医療協会は厚生省の管轄する公益法人で、美容医療(主に美容外科)を医療として遂行する為の制度作りをする筈でした。主に次の三つの方法を使います。1、適正認定医を選出する。2、美容外科の医療広告を法律上の罰則は難しいとしても警告する。3、市民に美容外科医療の啓蒙する。美容外科用の医療材料等の安全性を検討する。

この様な建前から設立が成されたのですが、要は業界団体の、それも形成外科出身の美容外科開業医の権益の擁護が最大の目的であるとはいえました。

その証拠に、最初に起きた事例が4人組問題でした。設立メンバーのうち最強派閥である医師達が存在しました。警察病院出身で形成外科を長年研鑽した後に美容医療を開業した医師の一団です。彼等がイニシャティブを取って協会を設立してきたのは間違いないと思います。昭和30年代から隆盛してきた美容整形の対抗馬として、本邦での形成外科の先頭群の中心であるOm先生の下で研鑽を重ねた医師4人以上が、昭和50年代までに開業していったのです。美容整形に対抗する程の実力を備えて行ったのはまだ少数でした。彼等が大学病院の形成外科医や後輩を巻き込んで、協会を設立して言ったと考えてもいいでしょう。しかしその後何をしたかというと、協会の中心メンバーとして彼等をマスコミに売り込んでいったのです。この後何年かは協会内でこの面で軋轢を生じました。父はそれなりに怒っていました。名ばかりの理事であるUm先生も一緒になって怒っていました。そして改選までに排斥されて行く事になります。父がその時立ち上がりました。その話は今後にして行きます。要するに既得権益の保持の場となっていたのです。

さて、もう一団の大学病院の形成外科の医師等は何をしにきていたのかというと、博付けですかね。形成外科教授陣が美容外科にも造詣があるという博付け。逆に開業医に取ってはアカデミックな面での優位性を得る事で協会を博付け。持ちつ持たれつの関係といえます。それに、大学病院の形成外科医に取っては、美容外科への進出という新規権益獲得の為の行動も目論でいたのかもしれません。実際この後20年間で、大学病院の形成外科から美容外科として開業する医師が漸増していきます。アッ私もその一人です。私は、美容外科医になるための勉強の為に形成外科に入局したのですが、そのうちに形成外科診療が面白くて仕様がなくなって、15年も在籍したのですが、この頃からの動勢が、私に再び美容外科開業の意志を持ち直させたとも考えられます。後年医局を退するに当たって、日本美容医療協会会長でもあった北里大学形成外科のUc教授に賜った一言を思い出しました。「お前は、臨床が好きだろ?、それなら美容外科に向いている。本来開業医の子なんだから当然だ。」私が形成外科修行の後に美容形成外科開業医をやって行く事が出来たのは、日本美容医療協会に関わって行く事になるこの1992年が重要な契機であると思います。

美療協という略称があるそうです。美容医療の斯界での唯一の厚労省(当時は厚生省)管轄の公益法人で、市民の為に政治的公的スタンスから美容外科を医療として監督して行く筈でした。しかしこの後その有効性がどれだけ発揮出来たかは見解が多々あります。次回からチクチク述べて行きたいと思います。一度、自分の仕事茅ヶ崎徳洲会総合病院以降の形成外科診療の話と、銀座美容外科医院でのバイトの話。そして父等との邂逅の話に戻って次回へ。