歴史秘話じゃあなくて、記憶をたどって思い出しながら、父との美容外科についての談話も添えてきましたから、口頭伝承と自分史です。ところが、この数ヶ月提示症例が多く、手一杯で、歴史はお休みしていました。まだ美容医療者としての人生の半分にも達していません。正確には私は医師としては29年目で、このブログ上はまだ10年目です。とにかく1ヶ月ぶりに再開します。
実際の9、10年目のバイトでの診療について簡単に説明します。他のテーマとして、もう一つのバイトと北里研究所病院の方針。父が自嘲し笑う話から繋ぎます。カナクリとのハードな折衝も紹介します。ところで、実際にコムロに行く前は、美容整形の延長的な医療レベルの低いクリニックだと予想していましたが、そうとも限らなかったのです。
そこで、もう一度平成11年当時の美容整形の情勢を説明しますと、チェーン店が花盛りでした。形成外科出身の美容外科開業医は数少なく、チェーン店が広告展開し、多店舗を受け皿に、他科の医師をにわか美容整形屋に育てるシステムでビジネスに徹していました。今に至るまでこのモデルは微妙に変遷していますが、基本的に変わりません。言うなれば、チェーン店系は医学的研鑽を積むのでなく、ビジネスとしての美容整形屋を養成しているだけです。
それらチェーン店系の順位は当然、売り上げが基準となります。広告量や、医師の数、更に本人達の自称の数字から推測される順位は、巷間では知られていました。一位は隆盛を極めたカナクリ:男物から脱皮して、十仁を辞めた副院長を雇って美容整形の教えを請い、広告資金に任せて稼ぎまくりました。当時全国30店舗を超え、年額最大30億だと院長が自慢していました。彼は更に、「その半額は広告に費やしている。電通は俺達が飼っている様なものだ。」と豪語していました。後日談としては電通に返せなくて潰されたそうです。この話は後でもう一度します。二位は10年近くになる品川:十仁に新卒から入職し、一通り覚えたら辞めて開業し、新人医師を安く雇って適当に教えて、地方に配置するビジネスモデルで稼ぎました。三位四位は中央か共立でしょう。高須は順位不明です。中央はやはり、十仁に平成の初めに入職した6人衆のうちの二人が開業しました。バックにその筋が付いていてこき使われていたようですが、十仁で6年も修行した彼等は売り上げを伸ばしました。共立は高須で学んだ三人がビジネスモデルを合わせて開業しました。広告が派手なのは皆さんご存知でしょう。もちろん技術は伴わないのですが、未だに頑張っています。高須がビジネスモデルを作り上げたのはもちろんですが、彼は親の代からの開業医で病院持ちで、広告戦略と多店舗展開を推進しましたが、医師は余り養成しなかったのです。少ない医師が新幹線で大都市間を行き交う`新幹線整形`です。そして少ない養成医師に逃げられて共立を立ち上げられたので、苦虫を潰していました。今では高須はファミリー企業ですよね。ところで、現在一位のSMBC は当時はまだその名の通り、湘南の一角の藤沢で開業したばかりです。彼は品川出身です。
五位か六位か分りませんが、コムロはそのくらいの売り上げレベルでした。そのくらいって全国5店舗程度ですから、カナクリの10分の一程度でしょう。それはそれとして、医師は自前では養成しません。ある程度の実力の医師を雇います。ほとんどがアルバイトの医師で、地域を動かしません。実際小室医師は、十仁や高須出身ではありませんから、ビジネスモデルを踏襲していません。彼は元来普通の外科医で、昭和医大の藤が丘院で働いていました。乳房の手術経験が豊富でそのうち南雲と意気投合してバイトに行ったのです。そこで、同じ乳房でも再建や豊乳術を学び、その後一時悪名高き日美にも出入りしたようですが、ほどなく開業したそうです。昭和医大藤が丘病院外科の時に同僚の形成外科部長に形成外科医療を習ったそうです。だからか、開業した後も形成外科医を好んで雇いました。今から15年前以上前の、形成外科医が美容外科に手を染めると医局から冷たい目で見られる時代に、コムロは積極的に形成外科医を雇ったのです。
であるからして、コムロの美容外科医療レベルは他のチェーン店より高かったと考えられます。今をときめく、リッツやベリテの医師はここに集まった連中です。だからもちろん、彼等と私は今でも仲がいいし、彼らは今でも数少ない、美容外科が好きな形成外科出身の美容外科医です。さて、最初にバイトに行った時、小室先生が豊乳術を見せて手伝わしてくれました。でも、どうもイマイチの知識と技術でした。私は既に銀座で経験豊富でしたから、見た瞬間に、コムロは口ではうまそうに言うけれどって感じました。でもちゃんと2例目からは巧かったのです。もしかして私と一緒に手術する際にあがっていたのでしょうか?。思い出しました。最初に私が電話で応募した際に「本当に森川先生が来てくれるのですか?。」と訝られ、逆に「スパイ行為ではないですよねもちろん。」と念を押されました。あの森川の息子が行くので、あがっただけでなく、警戒していたのかも知れません。でも小室先生は実はいい奴ですから、形成外科医に慕われていました。私もそのうち、多くの形成外科医で美容外科に手を染め始めた医師群と懇意になりました。数えればきりがないくらいで、20人くらいのまともな美容外科医と出会いました。
先に挙げた様に、当時のチェーン店は形成外科医をほとんど雇っていませんから、レパートリーは狭く、しかも下手でした。今でもそうですが、困って私等を訪ねる患者さんが後を絶ちませんから、知っているんですよ。それに比べ、少なくともコムロでの美容外科医療は、みんなが上手かどうかは別として、レパートリーが豊富でした。形成外科医は切開手術に精通していますし、解剖や生理の知識を貯めていますから、当時の形成外科をベースにした先端の美容外科医療を展開していました。例えば上下眼瞼の切開も毎日ある。鼻の手術は、プロテーシスに限らず軟骨も触る。ボディーは乳房は当然として、乳頭や乳輪もする。脂肪吸引も毎日施行されていました。麻酔も上手な医師が在籍していましたから、大きな手術も出来ました。因みに北里大学形成外科医局の2年先輩で、5年次に突然辞めて他大学の麻酔科医局に入り直したベテランの麻酔科医がバイトしていました。そこで再開して懐かしい想いをしましたが、形成外科医としてののキャリアーは私の方が長いので、むしろ教える側に廻った感じが奇妙でした。更に麻酔医が充実しているから、骨系は最先端でした。当時から形成外科医は、病院に勤務していますから骨切りを出来る医師が多かったのです。その中でも美容目的の骨切りが得意な医師が数名在籍していました。今でも形成外科学会で骨のセッションに必ず登壇する様な上手な医師が3名も在籍していました。
そんなレベルの高いコムロでしたが、一部他科出身の医師も居ました。例を挙げれば仲良しの木村先生が居ました。元整形外科医です。説明は省きますが、私が3年次のときからの腐れ縁です。今はヤスミを継いでいます。他に若い形成外科医が研鑽を積む場としていましたから、経験の浅いものも在籍していました。ところで、小室先生は?。彼は普通の美容整形屋よりは高レベルでしたが、しょせん外科上がりですから、細かい技には欠けていました。切開法は我々形成外科医に任せて、ボディーを主に手術していました。顔面骨も触っていましたが(昭和時代に教えてもらったそうです。)、典型的なものに限っていました。ちなみに彼自身の眼瞼は切開法で重瞼術をされていると見られますが、バレバレのハム状態でした。さすがに美容整形屋の手によるものだからでしょう。
コムロでのアルバイトで、結構ハイレベルの美容外科医療の経験をした話題を記しました。銀座美容外科での、古いけれど大胆で派手な美容整形術と違って、一般人にも受け入れられ得る普通の美容外科医療ですから、大変勉強になりました。あくまでもビジネスではありますから、そのノウハウも垣間見ることができました。こうして、非形成外科の美容外科の世界に入っていくのでした。
今回はまずバイトの話で終始してしまいました。9~10年目の北里研究所病院に出向している間にはほかにも話題が尽きません。次回その続きから。