今回球と徳洲会病院での合同手術について説明します。内容はどうあれ医療に対する姿勢が大事!です。中小病院ならではの、様々なしったかめっちゃかな医療を経験しました。いくつか覚えているのは、a;口腔外科医と美容外科医である私による手術。b;後輩の耳鼻科医と形成外科医による耳下腺腫瘍摘出術。c;耳鼻科手術後の重篤な後出血を治す為に耳鼻科医と口腔外科医と私で四苦八苦した。d;心臓外科手術後に胸骨正中切開創が開き、私と共同で筋皮弁で充填しようとしたら、心臓外科医が術中に前胸動脈を傷めて出来なくなったどうしような症例等。更についでに長男の扁桃腺の手術をしました。とにかく今までで一番小さくてもアクティブな大和徳洲会病院では医局員が近しく、いい経験と知識を得られました。
a;徳洲会で美容目的の自費の手術を積極的に行なうのは難しい面があります。徳洲会グループは、医療格差是正をモットーにして来ましたから、自費診療で目立つと周囲の開業医から揶揄され、保険診療面で減点の標的にされかねないのです。しみとりレーザーを導入する際にも保険のあざとりをメインにする様に云われ面倒でした。そんな中で、美容目的の下顎角(陸上動物である人間にはエラは無い.)の張った患者が来院し、口腔外科を受診し、骨切りを求めたそうです。彼等は保険診療しか経験が無いので、早速私に相談して来ました。歯科口腔外科では骨格の不全による咬合不全に対しては保険診療での骨切りをします。形成外科でも行ないます。咬合機能に異常がない、単なる`エラ張り`(やはりエラといった方が判り易い)は下品ですから、美容目的で治したい患者は多々居ます。今では骨の張った人は必ず咬筋も発達しているので、ボトックスを第一選択としますが、その頃私は既に銀座にはBTXを導入していましたが、徳洲会では受けられませんでした。そこで骨切りを行なう決断が下され、形成外科・美容外科の患者として口腔外科医との合同手術を計画しました
実際に二人が術者として手術に臨みました。口腔外科の部長医師は私と同年代でS大学出身です。出身高校はかの麻布でした。さもありなん。麻布出身で東大進学でない者は敗北感が転じて人を見下す様になります。要するにひねくれています。私は他にも同様の人を知っていますから、警戒しないで面白く付き合いました。そこで、手術中に彼は自分の道具を用意していました。ビックリしたのはエラ削りの経験が無いのに、いい道具を持っていたのです。口腔外科分野では口の中から骨を削る為の道具を発注していたのです。口の中からエラに挿入して骨を切るには直角の鋸が要るのですが、彼は何枚もの種類の歯とドリルを駆使していとも簡単にこなしました。形成外科・美容外科の道具は、この分野では不備だと思っていたら、彼は「やっぱり骨切りは口腔外科医に任せましょう。先生は細かい手術していればいいんですよ。」と鼻高々でした。さすが麻布だと妙に納得したものです。「お前だってチマチマ歯をいじってばかりじゃないか?!」と言いたかったのですが口ごもりました。いやあ何しろその意味でも面白かったです。彼とはその後も仲良く通じていました。心の中では外様同士の二人が、徳洲会プロパーを「はみ出しもんで、医療の世界ではレベルが低い奴。」と通じていました。
b;耳下腺の多形性腺腫に対する浅葉摘出術は形成外科領域の重要項目で、学会認定医の為に提出する10例の経験症例に入れないと格好がつかないものです。ところがこの年仲の良くなった3人の科目、私が形成外科、後輩が耳鼻科、面白い(頭のいい奴は面白い)口腔外科は3科とも守備範囲としていました。確かにどの科にしても耳下腺は隙間でした。私は認定医の前の6年次からそれまでの10年間で年平均4例程度の手術をしてきました。茅ヶ崎徳洲会では一般外科部長に頼まれて、研修医クラスの教育も兼ねての合同手術をしてきたので大和徳洲会でも知られていました。耳鼻科は穴の中がねぐらですから、表を切るのは不得意です。ましてや耳下腺腫瘍は数が多くないので、経験が少ないそうです。後輩の耳鼻科医は大学で先輩の手術を見た事はあるそうです。勿論手術の勉強はした事があるそうです。ある時耳鼻科に地元の開業の内科?から耳下腺腫瘍の患者が紹介されてきたのだと記憶しています。元々仲の良い口腔外科医(外様同士の付き合い)にまず相談した様ですが、彼が私に廻す様に言ったのです。外を切るのは嫌いだったのでしょう。エラ削りがそうでした。耳鼻科医は悪性腫瘍なら顔を切りますが良性腫瘍である耳下腺多形性腺腫ではいやだったそうです。多形腺腫は放置すると少なからず(10%以下)悪性化するので切除が好ましいのです。そして多形性腺腫は耳下腺の浅い層に出来るので、顔面神経を確実に残して摘出する技術のトレーニングになります。私は当時美容外科医としても経験を積んで来たので、フェイスリフトの際の顔面神経の同定の訓練にもなるので浅葉切除術は得意でした。後輩の耳鼻科部長と研修医と私の3人で手術に臨みました。ところが微妙にやり方が違いました。切開線も顔面神経の同定法も耳下腺の切除法も、術中に摺り合わせて進行しました。私は当時フェイスリフトと同様のSMAS筋膜弁での被覆をトライしていましたが、耳下腺の切除の際に電気メスで丹念に焼き切るべき所を耳鼻科医はしない方針だそうです。耳下腺からの唾液腺の漏出が懸念されました。案の定術後3日めには皮下(SMAS筋膜弁下)に唾液腺が貯留してしまい、毎日吸引してやっと治まったということです。彼に文句言われましたが反撃して「やっぱり焼くべきだった。」と言うと納得したのでした。お互いいい勉強になりました。
こんな経験が合同手術の面白さですが、考えてみればしっちゃかめっちゃかでした。彼とは2年間まだまだ付き合いますし、先輩として慕われていましたから、それに対する対応も人間関係のいい勉強になりました。考えてみれば大和徳洲会病院医局内では当時既に私は上から何番目かのベテランでそのため病院の運営にも自動的に携わる様になっていました。後段で簡単に触れます。
c;耳鼻科のトラブルに救急的対処と手術。d;胸部外科の尻拭いのため二人で面倒を診た。e;もう一つ心臓外科医は胸部外科医でしたが、手掌多汗症の手術を見学させてもらいました。番外編;長男の手術も恐い思い。長くなったので次回に廻します。続けて研修制度の説明もしていきます。その経緯から、病院そのものの運営にも関わっていきます。
ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。この辺りの話しも次回以降にします。