2017 . 3 . 9

美容医療の神髄-歴史秘話第81話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その56”「相模原市から隣の大和市へ編10:美容外科医か形成外科学医か?」

14~15年次=2000~2001年=平成12年〜13年度は北里大学形成外科美容外科医局からの大和徳洲会病院への出向でした。次の年は退局する事になりますから、権威的に大学でなければできない様なレベルアップの仕上げをする最後の機会です。教授もそのつもりで奨めたのでしょう。医学博士の審査を受けて合格し博士号を取得します。更に美容外科学会専門医の取得に取り組みます。

主に13年次に、知力を集中し手を動かして、研究に専従したのですが、出来上がった研究成果の発表は、国際美容外科学会;ISAPSの東京大会があったので英語で発表しました。ついでに学会の運営は前北里大学形成外科教授ですから、当時の教授にも頼まれて受付や誘導等の裏方仕事を三日間手伝いました。これは勉強にはなりましたし、同僚の関東の美容外科に興味が高い大学形成外科医局の教授や助教授や、有名美容外科医との交流も深められて、その後の美容外科医人生に役立ちました。さらにその学会の提携学術誌APSに掲載する事も目論みました。博士論文は主論文一通と副論文二通が必要ですが、副論文は既にあります。論文は査読を受けた一流誌に掲載される事が条件ではありませんが、インパクトファクター;IFが重視されます。それは世界的に読者が多くそれだけ投稿も多く、しかも査読に確実性がある為に、正統性が高いとされるからです。しかも、政府の交付する学術的な科学研究費や私立大学助成金はインパクトファクターの総量で計算されますし、医局の評価つまり大学からの予算もIFに左右されます。掲載誌の格が高い方がIFが高いので、少なくとも診療科目の国際学会の提携誌に掲載されるべきだとされました。APS, Aesthetic Plastic Surgery 美容形成外科誌はISAPSのUSAでの公認誌ですから願ってもないと考えました。その前年にISAPS; 国際美容外科学会の加入が認められていたので、あとは英語論文を上手に書くだけでした。途中までトライしたのですが、当時の医局秘書さんがネイティブスピーカーなので読んでもらったら、だめ出しされました。仕方ないので専門の翻訳家に依頼して、何回もやり取りして書き上げるのに二ヶ月は架かりました。2000年4月の大学定年による異動の直前です。USA との校正原稿の交通はFAXで行い、約二週間で掲載許可が下りました。APS誌の2000年4月号に載ります。でも博士号とは、大学院大学の審査を要します。教授一人が主査で副査は二人です。もう出向して大和徳洲界形成外科部長をしていましたが、何回か大学に参じました。確か9月の秋卒業時期に審査がありました。一通り説明して、審査教授一人ずつから質問を受けて、合格しました。巷間よく言われる様に、審査員に対して謝礼をするのが礼儀なのですが、それぞれに10万円以下の些少で済ませたのに、一人からお祝いの万年筆を送られました。恐縮してまたお礼に出向いたのを覚えています。その数週間後に学位記を大学から交付されました。文部省に報告され国会図書館にも収蔵されました。インターネットでも確認出来ます。学位記を持って直ちに父にも見せに行きました。もちろん大喜びですが、その頃から父は冗談で「次は美容外科教授を目指すか?」とちゃかす様になり、遂には「お前は勉強ばかりしていて、俺にも講義するし、教授みたいなもんだ。」と患者の前でも教授と呼ぶ様になりました。

ついでではないのですが、日本美容外科学会認定専門医を取得する事になりました。当時はまだ学会専門医が開業の条件になる予定はなかったのですが、いずれそうなるかもしれないし、大学で形成外科講座が美容外科講座を兼設する例が増えたので、パイオニアーである北里大学では学内の教授陣が専門医を持とうという事になりました。日本美容外科学会JSAPSの専門医は20症例の詳しい説明と術前術後と三ヶ月以上の経過の写真を要するため、開業医にはなかなかハードルが高く、大学病院やアルバイトでの症例を集めなければ難しいのです。内容はこのブログみたいなものです。当時日本に80人もいませんでした。当時の北里大学形成外科・美容外科Uc教授が2001年に入った頃に声を掛けてくれました。何しろ13年次に研究専従していた際には、私が大学内で美容外科を診療していたので、症例写真は貯めてくれていました。ほとんどの症例では教授と共に診療に携わったので、20症例ずつを分ければいいという事になりました。結構大変で、写真を選んで並べて、説明を加えて学会事務局に送りました。何度も審査員から質問があり電話で口頭説明をしてやっと合格しました。当時大学の形成外科・美容外科講座で専門医を取得したのは北里が初でした。ちなみにJSAPS は昭和53年位美容外科が法律で標榜科目となった際に学会を発足させたので、父は未認定ですが発足時の会員なので専門医でした。ところが、60歳以降は学会出席の義務が免除されて終世専門医になる筈が、その申請をしなかったからというだけで専門医を却下されてしまったのです。審査委員会長は父の後輩だったので激怒しましたが後の祭りでした。今でもその大先生は御存命で、私は学会で彼と会う度に皮肉を言わせてもらっています。だから当時、私が専門医を取得したときに父は、自分が敵を取った様に喜んでくれました。

博士(医学)号の学位記と日本美容外科学会JSAPSの専門医証は今、東京皮膚科形成外科銀座院に掲示してあります。ここで一度頭を休めて・・。

ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。JSASでの活動はこの年が最高潮で、しかも父がこの年主催しました。眼瞼下垂診療の集中講義を一時間もしました。預かっていた十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。所謂二股です。

同時にその後の私達の行く末を決めるアルバイト先を得ます。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。それが私の進路としての話しです。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承について検討し始めましたが、障害がありました。