2017 . 3 . 3

美容医療の神髄-歴史秘話第79話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その55”「相模原市から隣の大和市へ編9:美容外科・形成外科学」

大和徳洲会病院で研修医委員会に於いて、病院運営の特に人事で貢献?していた頃に、明確には書けないのですが、院長の交代というやはり人事問題に巻き込まれました。そして副院長を打診されました。迷いましたが私の人生にとって、平成13年は今から16年前でターニングポイントでした。簡略には記せない話しですが、この後の私の行く末と対比しながら簡単に書きます。

事の発端は前々回にちょっと触れました。院長室に管理栄養士が入り浸っているのが悪い噂を呼びました。そりゃそうです。40歳代でしたが割りとグラマーな方で、物腰ははきはきしているかと思えば、優しい言動もする。どう見ても、院長は落ちている感じでした。その頃、心臓外科の若い部長が、よく手術に大学から先輩を呼んでいました。私も知り合いの形成外科・美容外科医の知り合いだったので話をしました。そのうち心臓外科部長や耳鼻科部長や外科部長女史が、さらに産婦人科部長の副院長も話に加わってきて、院長の行動と管理能力の欠如と経営手腕について問題視する話題で、毎日盛り上がる様になりました。実は徳田理事長の耳にも入っていたようです。たまに巡回に来た際に院長と理事長が話し込んでいて、院長が深刻な顔つきになっていくのを目撃しました。そのうち心臓外科に筑波大学から来ていた先生の動きがだんだん見え始めました。どうも徳田理事長に話を通して、院長交代を根回ししていたようでした。数か月間で方向性は立ち、院長が交代することになりました。ところが同時に院長側にに付いていた副院長も異動になりました。そして本来このクラスの徳洲会病院は副院長が二人要ることになっていました。先に挙げた産婦人科部長の副院長は当時50代中ごろで、次に院内からの副院長昇格人事が探されました。とはいっても次の候補となるべき徳洲会プロパーの医師は、まだ若いのしか派遣されていません。8年前に茅ヶ崎で研修医だった際に可愛がった?医師が最年長で外科部長でした。そうなると他はほとんどが各大学医局からの派遣医師です。でも、比較的若い医師が多く、当時41歳の私がその中では一番上でした。

ある時副院長と、いつもの様に倉庫の後ろで燻らせていた際に、何とも言いにくそうに、でもいつもの様に軽いノリで一言「先生しかないんじゃあない?」「エッ!」と私。継いで「順番というか年功からすればそうだし、先生は徳洲会に長いしねえ。」と当然の様にこぼします。私が「だってえ、私は医局派遣人事ですよ!」と言った瞬間に彼は「僕だって一応そうだし、他にも居るよ。」と押し付ける様に、でも軽く言い放ちました。私は「解りました。医局に行って教授と相談します。」と言ってその場では答えませんでした。

確かにこの瞬間は私のターニングポイントでした。話しが前後しますが、実はこの翌年の異動先が念頭にありました。しかしまだ決定していませんでした。具体的にはバイトしていた地方のクリニックを引き受けて開業する話しです。地方で人口の割りにその医療圏に美容外科クリニックが少ない都市では、広告宣伝効果が高くて、患者を増やせるからです。しかも将来は銀座美容外科医院をチェーン店化して、支院にしようという計画さえもありました。父がよく言っていた「新幹線整形しようぜ!」とは違い飛行機整形の距離でしたが、実はその都市は大分県大分市で別府市も圏内でした。何を隠そう、別府市は銀座美容外科の圏内なんです。その話しは後段に廻しますが、いずれにしても、父の相談していて父も「もう、美容外科診療に専念してもいいんじゃあないか?、形成外科診療と美容外科診療を並列していっても先は見えないよ。将来は俺を継いでくれるならもうそろそろ美容外科開業をも念頭に入れて勉強を兼ねてやってみたらいいんじゃないかね?」と諸手を売って賛成していました。もちろん相手があり、条件も詰めていないその年の秋頃のことでしたから、まだ決まってはいなかった案件ではありました。その前後に大分院の運営者である医療コンサルタントも銀座に来院し、挨拶を済ませて父に説明をしはじめた段階でした。

そこに、大和徳洲会病院副院長の就任の内々の要請が飛び込んだのでした。翌年の開業異動に付いてはまだ決定していませんから、病院内では口にしていませんでした。副院長からの口利きは厚意だったのでしょう。その次の立ち話は丁度給料日でした。たまたまか、要請を呑ませる為にわざわざか、彼は給与明細を持っていて私に見せ付けました。こういうのって目にすると欲が湧くものです。当時私が医師15年次で約70万円の手取りに対して、医師歴20年程度の副院長は給与は年功ですからそんなにしないにしても、見ると役職手当が大きかったので手取り120万円を越えていました。私は上に書いた様にバイトをしていましたから、合わせればそんなもんです。翌年の院長就任の条件はまだ決定していませんでしたが、前例からして院長給として税込みで200万円〜を提示されてはいました。ただし売り上げ次第で、安定的では無いと予想されました。

なんだか両天秤みたいで嫌な話しですが、将来が架かっています。とにかく医局に行って話をしようと落ち着いていられない毎日だった記憶があります。私は一応医局からの出向者でしたから。実は北里大学医学部付属病院には定年があって、医師13年目で研究員助手としての年限は越えます。Jr.レジデントは2年(延長有り)、Sr.レジデントはチーフまで入れて4年。そのあと研究員助手として採用されて13年目には定年になります。出向中も年数に数えられます。研究員助手の最終学年に、医学博士号の取得の為に大学で奉職させてもらえた私は、その後は大学の非常勤講師として、形成外科・美容外科医局からの人事異動として、大和徳洲会病院に出向していたのです。博士号を取っておけば上からの人事の空き次第で講師に推挙してもらえる条件として医局人事に従っていた形です。ところで院長となれば、医局の人事異動からは離れなければなりません。大学の専任教員は自らが診療所の開設管理者であり、常駐の義務のある診療所院長を兼任できないからです。

そういう例はあります。随分前の話しですが、父が北里研究所病院外科で働いていた際に、皮膚科部長がサテライトとして銀座に診療所を開設していました。ところが彼が北里研究所病院の院長を拝命したため二院の院長は違法だと言う事で、銀座の診療所を父に譲ったのです。それが後に銀座美容外科医院となるのです。これまでブログにも載せました。先の打診の次の週の研究日に大学を訪れ、この話しから北里大学形成外科・美容外科のUc教授に切り出しました。いつもの居住棟のロビーです。居住棟は病院と大学の建物の間に挟まりあたかも渡り廊下みたいな建物ですが、各科の教授室以下、助教授室や講師室、研究員室や各レジデントの為のデスクと本棚を備えた大部屋もありました。そして、その四階には小さな喫茶室がありました。でも昼間はその医師も診療に忙しく近寄りません。人の少ない場で二人で話し合うには絶好のシチュエーションです。父の話しはどうでもいいのですが、実は伏線です。父も貰い物の診療所で美容整形を始めました。大分の開設の件は当初はやはり借り物ですが、仲達のコンサルタントを教授にも紹介し、実は教授にも手伝ってもらっていました。私も週に一回のアルバイトに通っていたのですが、余りにも患者が多くて面白そうだから、週に三日以上常勤し、開設管理者になる事も検討していたのです。もちろんその場合、大学医局人事からは外れて、でも医局からのアルバイト医師派遣は続けるという関連病院化も模索していた段階でした。

そこに大和徳洲会病院副院長の要請が舞い込んだのです。要するに話題を、診療所開設管理者の件と、どちらが医局にとって有用かを聴くことから入りました。まずは教授は第一声、予想に反して「副院長とはいい話しじゃないか!。医局人事内でそれは光栄なことです。」継いで「開設管理者は医局人事から離れなければなりません。開設管理者は医局の都合でころころ変えられないからです。」「でも副院長は医局人事で変えても問題は生じないから、お前さんが就任しても問題はない。」「引き続き医局人事で動く事さえもあり得ます。」ここで私は感じました。医局にとっても副院長から若しかして院長になれば、病院自体と医局が強く関連して、人事異動にも有位になるし、それに医局から副院長を輩出すれば名誉でもある。教授が嬉しそうに医局会で発表する顔が目に浮かびました。そして「よく病院上層部と相談してみなさい。」と教授は言いますが、それでは結論は出ません。矢継ぎ早に「ところで大分はどうするんだ。」話しを蒸し返す教授。「毎回バイトの際に話しが出て、私が受ける事も出来る状況です。」と私。「そうか副院長就任はいい話しだしな。迷うな!」と却って迷わせる教授。私は「では教授としては医局の主宰者のUc先生としてはどちらがいいと考えますか?」と問い詰めると、教授は「それは医局にとってもいい話しだが、決めるのはお前さんだ。ところで条件は?。」私は「病院副院長の条件は詳しくはまだ提示されませんが、年功と役職で決まっているので見当は付いています。今の副院長に聴きました。大分の件は飽くまでも彼が(コンサルタント)雇う形なので提示は受けていませんが、彼が調子のいいのは知っているでしょう。かなりの額をぶら下げていますよ。銀座の父とも話しましたし。」「でも安定性というか安全性を取ると、徳洲会は高いですよね」(今から数年前に徳洲会が問題が起きて傾いたのは皆さんご存知でしょう。当時はこんな事になるとは誰も予想だにしませんでした。)「そりゃそうだ。とにかく先生がどうしたいのかよく考えなさい。私や医局の為ではなく、先生自身の事なんだから。」と教授は言ってくれました。私が更に「教授としては病院の副院長なら医局人事として残す。大分開設なら、退局と言う事ですね。実は私は将来、大学病院で美容外科の長をするのも夢なんです。医局を離れたら戻れないんですよね。夢は潰えますよね。」と念を押すと、教授は「いやその機会があれば声を掛けてあげるから、心配するな。」と答えて本当に?と迷わせられました。ついでに私「父なんか今でも院外教授として美容外科を大学で教える機会があったら悦んで参加すると言っていますよ。将来は大学で美容外科を教育していくべきだとお考えですか?。」と問えば、教授は「有り難い話しです。でも今はまだ機は熟していないな。」と意気に答える。時間も忘れて、なんて自分に取って有り難い話しだろうと感激しつつ、でも結論が出ないでいると、教授は「そろそろいいか?、自分の為に考えなさい。先生は臨床医の跡継ぎで、これまでも関連病院で臨床家として、腕を振るって来たと周りからも認められている。先生は臨床家が合うと思う。副院長は管理者との二足の草鞋になるかもな。先生が合うかどうか考えてみなさい。」と結論じみた弁を置いて「じゃあまた話しに来なさい。もうそろそろ、私は人事異動の時期で忙しいが、先生の人事は医局には影響ないから心配しないでいい。」と言い放ちました。

教授の最後の二言が、私をはっと目覚めさせました。やはり私は開業医の息子で、父は私を臨床家に育てるべく医師にしてくれたのだろう。教授は私を預かって来たつもりで、育てるのが務めと思って来てくれていた。彼は臨床教育面は厳しく、一年次からよく怒られた。でも私をほとんど関連病院に出向させてくれていて、自由に臨床診療を学ばせてくれた。それどころか、11年目には銀座美容外科医院の副院長としてに出向させてくれて、美容外科診療をフルタイムで学ばせてくれた。その翌年は臨床ならず医学博士研究もさせてくれたし、同時に大学病院で美容外科医療の診療と教育の中心のポジションに着けてくれた。その時の言葉で「これからは形成外科医局員は美容外科診療も並行して食べていかなければならない。だから、大学病院での形成外科診療中にみんなは美容外科に役立つ解剖や生理学的な知識を吸収しなさい。」とかがあり、美容外科診療に本気になっているなと感激しました。その土壌で、私をも美容外科診療の中心となる臨床家として育てた結果としての、私への忠言だったのだと理解しました。

と言う事で、その時ほとんど進路は見えました。翌春から地方の美容外科クリニックの開設管理者(=雇われ院長)を受けて、臨床診療に邁進し、同時に医局員のバイトも受け入れて美容外科診療の経験を積ませる事が、私の使命だと考えました。教授に背中を押されたのは確かです。

もちろんそれだけで決められません。家族にも相談しました。地方の美容外科クリニックに毎週三日以上は出張しなければならないのですから、家族との時間は半分以下になるのです。子供は4歳から12歳の可愛い盛りが4人(この後もう一人)で、それぞれが大変な時期ですが、平日だけの出張だし、むしろ休日は作れるからそれもありかと話し合い。経済面でも余裕が出来そうなので、配偶者としても容認出来るとの見解で一致します。更に父とは話し合うまでもなく、将来を見越しての勉強になるからと賛成されました。ただし、この時父は既に74歳で体調も万全ではないので、私が東京に居る際には手伝う必要があります。なので結構時間を食うという事になるのです。実際その後に父は倒れます。そして私は、二足の草鞋で体力を消費する事になります。その件は後段で。

これで15年次に大和徳洲会病院形成外科・美容外科部長職を辞し、長年在籍した北里大学形成外科・美容外科医局を離れ、地方で開業する事になります。ところで、病院での話題が何回か続きましたが、14〜15年次の頃=2000~2001年=平成12〜13年度の美容医療の世界、父との邂逅、大学での仕事の続きを述べ足します。