2017 . 4 . 21

美容医療の神髄-歴史秘話第87話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その62”「銀座から地方都市へ4:美容形成外科学医」

16年目に医局を辞して開業するにあたり、E先生のクリニックを居抜きで継いだのですが、開業した結果私も臨床形成外科医会に加入しますし、学会の世界でも人脈が広がります。また父は元美容整形の非形成外科の美容外科医として昭和36年以来の開業歴ですから、一匹狼なのに人脈は広かったし、美容医療の世界でも顔役でした。しかもOm.先生とも交流があったのです。そしてE先生とも交流を深めていきました。話題は続き、そこから再開します。

私が北里大学に入局して2年目に、日本美容外科学会JSAPSを北里大学形成外科が箱根で主催したのですが、父も参加しました。Om.先生は特別講演を依頼していたのですが、空気が薄いせいか噴火の煙のせいか、冠動脈疾患が悪化したのです。とにかく運ばなければまずいと、形成外科医の伝説の人物ですから大騒ぎになり、ベテランの形成外科医と学会の運営に携わる私達若い形成外科医が集結しました。幸い意識は清明でしたから、遠いため何十分もの緊急車を待つ間多くの者と話していました。

実は父も学会に参加していました。父は何気なくOm.先生に近寄ると、Om.先生の方から話しかけてきました。「久しぶりだねえ!」父は「息子も来て働いているし、今回は学会に参加しました。」と返し私を指差しますが、当時私は3年次のぺエペエですから、会釈だけしました。Om.先生は病気を忘れてニコニコして、「これから形成外科いとして精進しなさい。」とか言ってくれて挨拶はそこそこに、そろそろと車に乗っていきました。騒ぎも収まりました。私は学会運営要員でしたからすぐに学会場に復帰して、Om.先生とのことを父と後日話しました。

数日後銀座で話が出ました。父が突然「よおー、カズ(若いときですから息子である私を呼び捨てします。)Om.先生と久し振りに会えたなあー。よかったよ!。若しかしてもう会えないところだったもんな。」と縁起でもない話から振り向けてきました。私は「裏側(JSAS側の非形成外科医という意味)のおやじさん(父のことをそう呼んでいた。)がOm.先生と懇意だとは知らなかった。」と驚いたふり。父は「確かに形成外科医は美容整形を敵視してきたし、話したこともないやつがほとんどだけど。」「シリコンの件ではいろいろ世話になってたんだ。」私が「ええっーなにそれ?」ともう一度眼を丸くして訊くと父は「確かにシリコン(注入)の後にガチガチ問題はあったけれど、俺はうまいから起こしていない。」「それにOm.一派だって最初は夢の材料だとか言って使っていたんだぜ!」もう一度「へえー!」父は、「実はシリコンの件で呼び出されたことがあって、行って議論していたらOm.先生は『森川君はいい医者だから、解かった。』と言って(有名な声色も使う。)、認めてくれ、『これからは君はまともな美容整形をしたまえ。巷間のインチキ整形屋とは距離を置いていきなさい。』とか言ってくれたんだ。」私はそこまで話してもらったときピンッと来ました。[そういえばおやじは一匹狼だし、JSAS側には一匹狼が多い。十仁のUm.先生(先日逝去しました。)のことは可愛がっているけれど、そうだな・。]と思い起こしてみました。

前回書いたように、昭和30年代までは形成外科医出身の美容外科医は居ませんし、昭和40年代も非形成外科医が主体だった。昭和50年代に入って形成外科が増えていた後に、美容外科標榜が認可されてからJSAPSとJSASが戦闘状態になったのです。父には昭和40年代から、同業者の友人がいました。しかし美容整形の主流の医師は離合集散を繰り返します。私が小学生の頃、イレブンPMによく美容整形医が出演していました。同年代の人なら知っていると思います。でも、そこでは毎回喧嘩していました。[思い出した!。よく喧嘩していたのはH,K女史と誰だっけ父もたまに出ていたっけ。]と思い出し笑いして、父に「そういえば昔の美容整形屋はよく喧嘩していたよね。」と言うとと父が続けて、「そういやあ、Om.一派があの4人組だぜ!、喧嘩はしていないけれど、あいつらには煮え湯を飲まされたぜ!」と話が戻る。Om.先生は日本の形成外科の創始者で、美容外科もUSAから同時に導入したのですが、美容整形がのさばった。特に昭和53年から、Tクリニックを嚆矢としてチェーン展開戦略が席巻しました。開業医の父は昭和50年代には歯噛みしていました。平成に入りこの状況に対してOm.先生の下から巣立った美容外科開業医が巻き返しを図って、厚生省管轄の公益法人である日本美容医療協会を設立したのが、1992年です。ところがやり口が汚かった。協会は形成外科医が主体ですが、Om.先生は上記の如く亡きもの。彼の弟子たちが主体になりますが、牛耳るのです。発足当初から4人組がマスコミに出まくり、利益誘導を図りました。

この話題になると父は、遺恨があるため口角泡を飛ばしてまくし立てます。協会発足後直後のことでした「4人組は、Om.一派と呼ぶが、E、H、U、Nの4人は警察病院形成外科の出身で、協会の発足に寄与したのはいいが、自己チュウだ。」「それにあいつらは本当に下手だぜ。Hなんかの切開重瞼術なんかはゼーンゼン綺麗じゃあない。外れた患者が良く来たもんだ。」と矛先を向ける。「Uはいじわるくて、ケチで有名。ああここにいるこいつ。」とN.N.看護婦を指差して「うちを一回辞めてU先生のクリニックに移ったはいいけれど、出さないから辞めたんだよ。なあナミ!」N.N.看護婦も受けて「そうなのよ、奥さんが事務長やってるんだけど意地悪くてね。」ついでに、N先生にも矛先を向けると思ったら「Nちゃんは武闘派で頭良くないから使いようによっちゃあいいやつかも?」って誉めてるんだか馬鹿にしているんだか?。確かに2000年にISAPSを日本開催した際に私は学会運営に駆り出されましたが、その部門の責任者はN.先生でした。私には強面でも優しい先生でした。父の見立ては合っていた。次回に続けます。