今を大事に生き、過去からの経験を掘り起こし、未来に向かって何をしていくべきか?。いつの世でも私達の命題ですが、医療に於いても、現在過去未来のプランが欠かせません。だから、診察が結果を決めるのです。診察は,触ったり,検査したりだけでなく、過去の経過から、求める未来像を引き出す。つまり情報が結果を導くのです。通常,医療に於いては診察前の事前情報を求めます。予診カルテと言ったり,アンケートと称したりします。姓名はもちろん,年齢、性別、住所、職業、家族構成、等が医療に必要な情報なのです。例えば、治療が危急の疾病でない場合、医療者のスケジュールと患者さんの都合の合一がなければ、成り立ちません。仕事の都合,家族の都合,通院の距離と時間等が影響します。職業については,特殊な物質に暴露する人は医学的に診療に
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まぶたの機能と美容医療Ⅶ 眼瞼下垂その5 -診断:自己診断をしましょう-
これまで、眼瞼下垂症診療の歴史、症状、分類、原因等について述べ、治療法について分類してきました。
それぞれに機能と形態が違う患者さんにとっては、自分はどのような程度の機能なのか、形態的にどうしたいかが違うわけです。その前にもう一度、まず医療の発展に伴う目的の段階を述べます。第一次:生命維持・第二次:機能保持・第三次:形態良好化。形成外科医療は保険診療で第二次の目的ですが、第三次目的も加味して差し上げます。眼瞼下垂症はまぶたという目立つ部位なので、その最たるものですから、機能と形態、そして治療の経過のバランスが重視されます。そして、その限りにおいては、性格、人格や人間関係を含めた社会性も、重視されるわけです。
こう考えてみると、治療の適応は、人それぞれによって違います。診断とは、治
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美容医療の神髄Ⅴ-歴史的経緯第三話- ”口頭伝承話”その1
昭和30年代に入り、その頃巷では、高度経済成長期に乗じて、贅沢医療としての美容整形開業医は、雨後の竹の子のように、増加していきます。昭和36年に父が銀座で開業した時点では、都内に三十院は下らなかったそうです。すぐに、山手線の各駅には美容外科が存在していたそうです。また、大阪では戦前からの外科病院である、白壁病院が美容整形を始めました。
美容整形を開業する医師は他科からの転向しかありませんでした。もちろん多くは、外科系からです。一例として、父は胸部外科医として、北里病院に勤めていました。実はそこに二本の伏線があります。当時は結核患者が多く、胸部外科では、胸郭形成術という肺をつぶす手術法が定番でした。すると、胸がぺちゃんこにへこみます。そこで、当時開発されたばかりの、シリコンジェル等を注入
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美容外科の神髄Ⅳ-歴史的経緯第二話-
戦後日本の美容医療の先行者は、もちろん十仁病院でした。十仁医院は戦前からあり。先代(現在の院長:梅沢文彦の父)の梅沢文雄医師は。上野で開業していました。美容医療というより、男性器治療から入ったようです。戦後新橋で再建した十仁病院は、美容整形を前面に打ち出しました。戦後米軍とともに、医師団も日本に視察、医療指導のため、来日します。ある有名な形成外科医は、日本でのPlastic Surgery は十仁が最高峰だと論文に記しています。
当時はまだGHQの占領下で、都心にも米兵がゴロゴロいた訳で、経済的に欠乏していた日本人女性の中には、米兵にぶら下がって食べさせてもらう者たちがいました。そこで、米兵に相手にしてもらうためには、「バターくさい容姿=外人風の顔。」にする方が優位なのでした。GHQ本
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美容医療の神髄Ⅲ-歴史的経緯-
話しがあっちこっちに跳んでしまって混乱させてしまっているかもしれませんが、お許しください。ブログですから、徒然なるままに書きます。
私事、生涯一美容外科医を名乗る森川一彦は、美容外科医である父の下で生を得て54年、医師としては26年に過ぎません。こんな私が歴史を語るのは僭越かもしれませんが、私達親子の経緯も含めて、述べていきます。
日本での形成外科、美容整形の歴史は戦後からといえます。欧米では20世紀の初めからです。その前に現代では、形成外科、美容外科(美容整形)、最近では美容皮膚科、美容内科で対応する美容医療という概念は、いつからあるのでしょう。
三国志には、一重瞼を二重瞼にした女性の記述があります。これまで述べた東アジア人の特徴ですね。これは立派な美容医療です。同時期に
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