前回眼瞼下垂症診療の歴史と症状の説明をしました。今回は眼瞼下垂症の病態と原因、そのための治療法について詳しく述べていきます。
最近学会で議論されているのですが、病態の理解が進んでいないために治療法が的確でないケースがみられるようです。信州大学形成外科の松尾教授を中心として、私達勉強好きな形成外科医がこの分野をリードしています。今回はもう一つのテーマ:眼瞼下垂の仕組みと治療法を述べます。
従来眼瞼下垂症は、先天性と老人性(私は加齢性と言ってます。)に大きく分けてました。疾病と捉えるなら、原因と機序、病状によって治療法が選ばれるわけですが、これではよく解りません。ほかに原因分類として、神経性と筋性、本態性と二次性などに分けますが、神経性や二次性は多くないのです。実際には先天性の多くは
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カテゴリー別アーカイブ: 美容外科
まぶたの機能と美容医療Ⅲ 眼瞼下垂1
眼瞼下垂=まぶたを開く機能の低下。最近よく耳にされる言葉だと思います。瞼の機能は、形態に対して、如実に反映します。前回も述べましたね。
眼瞼下垂症そのものの疾病概念は、形成外科、美容外科の萌芽よりもずっと古く、20世紀初頭には医学的に認識されていました。主に眼科医が担当していました。このころの眼瞼下垂症の概念は、一目でわかる程度の病的な状態をいいます。視機能的医学の概念ですから、狭い範囲を定義していました。一言でいうと、瞳孔が隠れるかどうかで、定義していたのです。これを狭義の眼瞼下垂症といいます。
美容医療としての、形成外科や美容外科が、盛んに診療されるようになると(1960年代)、軽度の眼瞼下垂症が軽度の機能障害と形態的異常感を呈していることが見出されました。つまり、形態と機能
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美容医療の神髄Ⅴ-歴史的経緯第三話- ”口頭伝承話”その1
昭和30年代に入り、その頃巷では、高度経済成長期に乗じて、贅沢医療としての美容整形開業医は、雨後の竹の子のように、増加していきます。昭和36年に父が銀座で開業した時点では、都内に三十院は下らなかったそうです。すぐに、山手線の各駅には美容外科が存在していたそうです。また、大阪では戦前からの外科病院である、白壁病院が美容整形を始めました。
美容整形を開業する医師は他科からの転向しかありませんでした。もちろん多くは、外科系からです。一例として、父は胸部外科医として、北里病院に勤めていました。実はそこに二本の伏線があります。当時は結核患者が多く、胸部外科では、胸郭形成術という肺をつぶす手術法が定番でした。すると、胸がぺちゃんこにへこみます。そこで、当時開発されたばかりの、シリコンジェル等を注入
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美容外科の神髄Ⅳ-歴史的経緯第二話-
戦後日本の美容医療の先行者は、もちろん十仁病院でした。十仁医院は戦前からあり。先代(現在の院長:梅沢文彦の父)の梅沢文雄医師は。上野で開業していました。美容医療というより、男性器治療から入ったようです。戦後新橋で再建した十仁病院は、美容整形を前面に打ち出しました。戦後米軍とともに、医師団も日本に視察、医療指導のため、来日します。ある有名な形成外科医は、日本でのPlastic Surgery は十仁が最高峰だと論文に記しています。
当時はまだGHQの占領下で、都心にも米兵がゴロゴロいた訳で、経済的に欠乏していた日本人女性の中には、米兵にぶら下がって食べさせてもらう者たちがいました。そこで、米兵に相手にしてもらうためには、「バターくさい容姿=外人風の顔。」にする方が優位なのでした。GHQ本
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ピアスで耳たぶが割れた人を治す =後天性耳垂裂に対する手術法=
またまた話が飛んでしまいますが、なぜか私の発明した?手術を行う患者さんが続いたので、提示してみたいと思います。2000年(平成12年)に日本美容外科学会(JSAPS)で発表し、論文にも書いた方法です。
「後天性耳垂裂に対する手術法」副題:懸垂型ピアスにより慢性的に生じた耳垂裂をピアス孔を同時に作成しながら修復する方法。よくある誰それ式何々法とは違い、本当にオリジナルな手術法です。
欧米では懸垂型ピアス,dangling pierceを着けることが多いのです。耳飾りは有史以来の欧米での文化です。ですから、欧米では、耳垂(耳たぶ)が重さに耐えきれずに、ピアス孔が徐々に伸びてしまい、しまいには割れてしまう=後天性耳垂裂が多いのです。したがって、修復手術法も多く報告されています。
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