2017 . 1 . 11

片側の切開法眼瞼下垂手術=黒目整形を希望された症例。蒙古襞の拘縮も目立つからいつもの黒目整形切開法。両側を比較してみていくとよく判ります。

症例は00歳、女性。一重瞼だった。20年前に埋没は受けているが、ご覧の様に外れてきた結果ラインが乱れている。LFは11.5mmで、眼裂横径23㎜、内眼角間34㎜、角膜中心間距離58㎜と眼球の位置が離れていないのに、目の窓の間が離れている。つまり蒙古襞が被さっているし、ピーンと突っ張っている為にまぶたの内側が開かない。所謂吊り目っぽくて、キツい目元の感じに見える。くぼみ目や三重瞼も生じているし、黒目の上が2㎜以上隠れている(=MRD<2㎜)から後天性腱膜性眼瞼下垂を伴っていると考えられる。 この様な機能と形態の改善にはなんと言っても`黒目整形`切開法が最良の結果をもたらします。ブログの読者の皆さんはご存知だと思います。 通常私は、両側同時に手術する事をお奨めしています。両側の手術の
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2017 . 1 . 7

黒目整形セットで大人っぽくなったね。

黒目整形セットの症例が続いています。まずは術前と術直後の写真を提示します。 今回の症例は18歳、女性。高校卒業前の若年者です。大学進学は決まっていますから、このチャンスに眼瞼形成術を希望された患者さんです。上に提示した画像2枚はどちらも術前です。左画像の様に髪を下して眉と眼瞼が見えないようにしています。右画像の様に髪をよけてもらうと眉の位置が見えます。開瞼時は常に前頭筋が反射運動で収縮して、眉毛を吊り上げています。この点は重要です。 間違いなく、通常の短期経過では、48時間をヤマに解消しはじめます。この後は腫脹が軽減していき、内出血の広がりは止まります。そして、これらのダウンタイムの時間経過は山の頂の程度により差があります。山が高ければ降りるのに(治るのに)日数を要する:山が高
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2017 . 1 . 5

美容医療の神髄-歴史秘話第73話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その49”「相模原市から隣の大和市へ編3:美容形成外科学」

耳鼻科や口腔外科とはそれまで接触する機会が少なかったのですが、それはオーバーラップする部位があり、疾患もオーバーラップするので、むしろ取り合いになる可能性さえもあるからです。 例えば、口腔外科医とは歯科の免許を持つ者のうち、歯と口の中を外科的に診る研修をして来た者ですが、口の周りは顔ですから、容貌にも影響する場合があります。少なくとも歯や歯槽骨や、上下顎骨の形態は顔面の輪郭に影響する訳ですし、歯は表情により見える所なので審美歯科という分野さえもあるくらいです。耳下腺を始めとする唾液腺は口の中に唾液腺を分泌する開口部(耳下腺開口部は見て判る。)があるので口腔外科医も守備範囲です。実はその時初めて教えて貰った事がことがあります。複数の診療科目がオーバーラップする疾患に於いては、各学会が折衝
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2017 . 1 . 4

美容医療の神髄-歴史秘話第72話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その48”「相模原市から隣の大和市へ編2:美容形成外科学」

14・15年次には大和徳洲会病院形成外科部長として、一応北里大学形成外科医局在籍の形で出向していました。そこでの話題として、臨床研修制度への方針作りを手伝いました。また臨床面では他科の医師とのコラボもしてみて楽しかったし、違う出自の医師との交流は医師としての人生を豊かにしてくれました。 ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承
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2016 . 12 . 29

美容医療の神髄-歴史秘話第72話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その48”「相模原市から隣の大和市へ編1:美容外科学」

その後私の14~15年次の大和徳洲会病院での形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。 大和徳洲会病院は200床に満たない病院ですが、九州の離島出身で関西を発祥とする徳洲会病院グループが関東に進出する際に茅ヶ崎、鎌倉の次に開設したアクティブな施設です。さらに三院はグループ化して、自前の医師をやりくりしたり、研修システム(公的研修制度では無い。)の下で新人医師から育てていく為の施設として、若い医師から上級の医師まで揃えていました。 大和徳洲会病院の院長はグループ内で育ったベテランで、私が茅ヶ崎に出向していた際には鎌倉に居て、私とも顔見知りの医師でした。その年になぜ形成外科を開設する事になったかは不明ですが、地域でニーズはあったのでしょ
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