2013 . 10 . 18

続き

昭和40年代には美容整形が盛んになり、形成外科医も整容外科と称して参入し始めます。学会というよりは寄合いに近いのですが、(まだ標榜が認められないので学会としての公的独自性がない。)二つのグループがしのぎを削ります。

そうしているうち公的な認知を求めて、つまり裏街道的に寛容されている美容整形を表だって行いたくなったのです。日陰者、前回最後に紹介したやくざ医師と呼ばれる立場からの離脱を図りたくなるのは、人として当然の感情であり、名誉も得たくなるのです。

そこで必要なのが、標榜科目です。標榜というのは、法令上広告可能な科目名です。美容整形は、法律上では、広告さえも禁止されていた訳です。もっとも父は銀座整形の看板を立てていました。十仁病院は美容整形を宣伝していました。お上に指摘されなければ、広告が容認されていたのです。

標榜を申請するなら、やはり学会がものを言います。すでに医療界で価値が認められていた形成外科は学会を作っていましたから、厚生省への働きかけは効を奏してきて、昭和51年には形成外科が標榜科目となります。但しこの経緯がややっこしいのです。当初形成外科医は美容を形成外科の一分野として(整容外科診療と称して)同時に診療をしようと目論みました。但し、形成外科診療は保険診療としてもいいが、美容に保険診療は認めないというのは厚生省も曲げなかったのです。当初は、なら保険で形成外科診療を標榜して、整容外科は標榜なしでも同時に自費診療をしようとの考えもあったのですが、そこで形成外科を診療できない美容整形開業医が横槍を入れました。喧々諤々議論の末、厚生省は約束させたのです。「形成外科医は美容をしない。」この様に、当時の日本形成外科学会長が学会誌に書きました。「戦術上仕方ない。」とも言いました。ここから形成外科医にとって美容を表だってできないという暗黒の時代が訪れました。もちろんその後も、陰で美容外科開業医を手伝う形成外科医はゴロゴロいました。ちなみにこの際の、形成外科標榜に反対した美容整形外科医のうちの一人は父です。実はここで、当時参議院議員だった、飲み友達の立川談志に働きかけています。形成外科医に、美容整形を診療させたくなかったのでしょう。このことが、後年の私の、形成外科医としての立ち位置を苦しくしてしまいますが、その時は父も”戦術上”仕方なかったのでしょう。ともかくも、美容整形医にとっては、形成外科医が整容外科として美容医療を独占する事を防げてホッとしたのです。その経緯として「美容整形は医療ではない。」国会で攻撃されたシーンは覚えています。美容整形外科はさらに肩身が狭い思いを募らせたので、ほとぼりが冷めるのをを待って、出直そうという流れができました。さらに形成外科医が、美容外科医を配下に置こうという目論みでも、出直しとなったのでした。ちなみに私は昭和53年に高校を卒業しましたので、この渦中に進路を決めきれない状態でした。美容整形は悪か?、形成外科は標榜され正当な医療となったが与すべきか?。まあいいや、先ず医学部に入って医者にになろう。それから考えよう…。悩んでもしょうがないと思い勉強しました。

追加があります。特殊標榜の件です。形成外科を特別標榜にできなかったのです。日本形成外科学会の失態でした。特別標榜とは;日本では診療科目は自由に標榜できます。自由標榜制度の為です。戦後すぐには医師が足りなかったので(戦死しました。)何でも診療させる制度が必要だった。占領軍が導入したインターン制度は有用でした。でも医療が進歩して、卒後教育で専門的医学を研修する様になると、専門分野しか診療できなくなっていった筈です。ところが、未だに標榜は自由です。昨日まで胸部外科を診療していた父は突然美容整形を開業しました。その後も、同様な例は枚挙に暇ははありません。外科しか研修していないのに、開業すると内科も標榜して仕方なく糖尿病も診療する。そんな危うい医療が未だに行われているのが、この国です。ブーイングは置いといて、形成外科としては、特別標榜を得ようとしました。前年麻酔科が特別標榜を得ました。ペインクリニックをする、麻酔科を標榜して開業する為には、麻酔科標榜医の資格を学会から認定されないとならない様に法制化しました。形成外科も同様に働きかけました。形成外科を標榜して開業する医師は、日本形成外科学会認定医でなければならない様に法制化しようと画策したのです。その結果、形成外科標榜医だけが、美容医療をする事ができる様にしようと考えたのです。すぐにバレて、美容整形外科医から反対されました。そして、十仁の政治力で簡単に防いだのです。父も「屋上屋を重ねる制度は医療を混乱させる。」と言って十仁を賛美していました。

しかし、ほとぼりが冷めないうちに、「これでは片手落ちだ。」美容整形開業医を主体とする日本美容整形外科学会は、標榜を得ようと運動を始めます。対して、形成外科医は整容外科を形成外科診療の一分野として、認めさせる様に動きます。同時に、枢要な大学の形成外科医と整形外科医が結託し、美容整形という標榜を認めさせない様に厚生省に働きかけます。美容整形と整形外科が混同されては困るという説です。確かに一理あります。二つの学会が攻めぎ合いますが、十仁のDr.梅沢は日本医師会長と同窓であり、政治家に働きかけて、標榜を認めさせました。但し、美容外科という科目名となりました。国会での審議採決はテレビで見ました。父はあわてました。大学の医師も美容外科が標榜されるとなると自分たちも参入するべく、焦りました。もっとも父は、美容整形外科に愛着を持っていて、その後も診療所の看板は「銀座整形」のままにしていました。さすがに翌年に保健所が申し入れ、変えさせられましたが、性懲りも無く、もう一度戻したら、撤去されました。その時のしょげた顔は今でも覚えています。

日本形成外科学会の分化会の性格を持っていた日本整容外科学会と、日本美容整形学会は、ほぼ同時に日本美容外科学会に改称しました。こうして日本美容外科学会は二つの団体が発足しました。その結果どちらも日本医学会に入れなくなりました。日本医学会とは、日本医師会が主催する、国内の各学会を統括する団体です。つまり法律上も、二つの日本美容外科学会は、厚生省は存在すら認めない状態が始まります。

JSAPSとJSAS 日本名では日本美容外科学会という同名の、アルファベット頭文字では似た、二つの学会が存在する事となりました。形成外科系は大森系(形成外科のメッカである警察病院形成外科部長の大森清一医師の事)といい、JSAPS ;Japan Society of Aesthetic and Plastic Surgery 訳すと、本当は日本美容形成外科学会です。美容整形外科系は十仁系(十仁病院がもっとも古くハイレベル、Dr.梅沢は整形外科出身)といい、JSAS ;Japan Society of Aesthetic Surgery 訳すと、日本美容外科学会です。

さてこの、標榜認可から、美容外科の過当競争が始まります。標榜できるから参入者が急増します。標榜できるから広告宣伝が進められる。その中でキーパーソンを紹介していく事になりますが、た〜くさんいて、誰から触れていけばいいか配慮さえも必要で、混乱しています。次回までに整理します。Dr.T.  Dr.I.  Dr.Y.  Dr.M.  Prof.S. …et.al

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