2015 . 10 . 30

美容医療の神髄27-歴史的経緯第27話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その4

2年次の続きとなります。東京都心に勤めて銀座は近いので、二週に一度くらいは銀座美容外科に寄りました。二ヶ月に1階くらいはゴルフにも付き合いました。だからこの1年間は父と話す機会も多かったと思います。

当時の美容医療の情勢としては、昭和63年ですから美容外科の標榜から10年を経過していたので、裏の存在だった美容整形から列記とした診療科目になって、市民に認知されていった頃です。

このころ、父との会話のキーワードは二つ。チェーン店系の勃興と新幹線整形。相対する方向性の中で情報交換し、方針を模索していました。

影の存在どころか、金儲け主義でやくざ医師とまで言われた美容整形だし、もちろん美容整形外科というのは無いので潜りの広告しかできなかった。昭和53年の美容外科標榜科目認可を契機に医療法上の広告が認められたし、丁度バブルで景気が良かったから、患者さんも増えたのです。

そこで、美容外科チェーンが増え始めたのです。代表的にはTクリニックが赤坂に支院を作って、本格的にチェーン展開を始めたのが昭和58年。S美容外科は平成元年に開院しました。この他にも続々チェーン展開されていました。

前回ちょっと触れましたが、一般に市中病院や診療所での診療というのは、一人ひとりの患者さんを患者さんとしてだけでなく、人として個人的にも診ていくのが務めであるといえます。かかりつけ医ともいいます。日比谷病院での経験はその意味で有用でした。そして特に美容外科診療では、元々個性のある容貌を、個人の好みや社会的背景に応じて、しかし普遍的により美しくする医療です。ですから、医療側と患者さんは親密な関係を結ぶべきであり、自然にそうなります。そんな世界なのにチェーン店化するのは、何故なのでしょうか?。

まず開業において出費を分け合うことがチェーン店化の目的なのかと考えれば、外科系だから設備や器械等初期費用が掛かる。それはそうですが、検査器械等は最小限で済みますし、どんな事業でも初期費用は必要です。広さはベッドが入れば足りるし、器械は外科系の通常の物です。

実は、チェーン化の目的は広告宣伝です。一般に、美容外科では患者側が受けた医療を公言しません。近しい人には告げるかも知れませんが、だからといって好評かどうかは不確定です。ですから、多くのクライアント(患者ですが、ユーザーです。)は広告を見ます。広告の露出度による費用対効果がほぼ一定です。さらに地方性があります。集客率として、人口対患者率の他に経済力も関与しますから、地方の方が低いのです。また、人の目を気にして地元での受診を控える人も少なかったのです。しかし、広告宣伝が盛んになると、地方でのニーズが増えます。それまでは美容外科医は、東京圏、関西圏が主で、中京圏や九州に僅かでした。ところが、チェーン店化に伴って、地方にどんどん進出していきます。雑誌の広告宣伝は全国単位の原稿ですから、いやでも全国に出ます。そこで、地方に受け皿があれば、受診します。逆に地方で美容外科診療が受けられるのなら、希望する患者さんにとっては、有り話しなのです。(ちゃんとしてたら!?)

こうして、地方を開拓していく為に広告宣伝が有用なのです。同じ広告費で連結した売り上げが倍増するのです。じゃあ医師はどうするのか?、二つのパターンがあります。1,医院数に合わせた医師を雇う。数ヶ月の促成栽培で、ある程度こなせる様にして、支院を任せる。2,一人または支院数よりは少ない医師が行ったり来たりして、手術をこなす。前診療、後治療は誰か(バイト医師ならまだしも,医師以外の場合さえあった。)に任せる。S美容外科は1法。Tクリニックも始めは2法でしたが、今は家族経営ですね。

確かに、美容整形とは標榜科目でないので、雑誌になんとか美容整形という名前で広告を出したら違法で、場合によっては発禁になります。だから、全国紙に広告を多載できなかったのです。記事なら可能でした。父はよく書いていましたし、TV番組に出演していました。しかし、昭和53年に美容外科の標榜科目認可が下りると、特に女性誌は、こぞって広告を掲載し始めました。折しも、バブル最盛期で雑誌も売れまくっていた頃でした。そして広告宣伝合戦と、チェーン展開の相互作用が進みました。

こうして、促成栽培の美容外科医もどきを多産して,チェーン展開が進んでいくのを見て、父は歯がゆい思いを私にぶつけていました。毎回愚痴グチ、「なあ,こういう意味で美容外科の標榜獲得などしなければ良かったかもしれんな!。副作用みたいなもんだ。美容整形のままの方が良かったかも。少なくともこんなことにはならなかったと思うよ。」などとあれこれ、いうことがめちゃくちゃ。議論がかみあわない。

私は複雑な気持ちになりました。小さい頃に、お前のうちは金儲け主義のやくざ医師、いや美容整形屋!と言われたトラウマがありました。でも面白そうだから、美容外科医になりたかった。しかも丁度私が大学入学する昭和55年の2年前に美容外科標榜が認可されました。なんかまともな科目に見えました。だから大学の形成外科に入局して、医学的基礎的素養を見に付けつつ`美容外科`をも学んでいくプランを持っていた。父も賛成したし、入局したら形成外科は面白い。少なくとも美容整形に戻る気はありません。チェーン展開が美容外科標榜の副作用だとしても、美容外科を真面目に追求していきたい。美容整形の時代の様な非科学的でいい加減なことはしたくないとの反省は心に刻んでいました。ちなみに美容整形手術の結果として、恐いもの、すごいのを見て来たからです。身近にも見られますし、父の時代に美容整形を受けた芸能人の経過も知っているからです。

もう一つのキーワード、`新幹線整形`はチェーン店の一型で上記2のパターンですが、これは一人または医学的素養の近い複数医または家族が、少ない数の支院間を行き来して、診療することです。少ないということは大都市、つまり東京名古屋大阪がメイン。そこなら、新幹線で午前と午後に分けて診療できる。そうでなくても行き来は楽。この形態を父は新幹線整形と称しました。もちろんTクリニックを意識していました。その頃は二人は仲良く、父はT先生を可愛がっていました。そして私に、「早くお前と一緒に新幹線整形をしたいな!」とつぶやくのでした。そして「ああ、君はまだ医局員か、まだ無理だな。」と嘆くのを忘れませんでした。形成外科に没頭し始めていた人の気も知らないでいたのです。

その頃、医師として、形成外科医として、2年次に過ぎませんが、既に美容整形屋の父とも軋轢が生じてきました。もちろん開業医の子ですから、過去を否定する気はありません。早くも2年次にして、美容整形とは対局にある形成外科に逃げようと思い始めました。折しもチェーン店系が進出して来て、父の銀座美容外科医院は苦しくなり始めていました。そして、バブルが弾けて、国民全般の経済状態が落ち始めると、その後の失われた20年間には、美容外科の世界は過当競争となっていくのです。

この後、3年次になるのですが、父から離れるのもいいかと思い、個人的に環境も変わったので、悩みます。したがって美容外科の世界にどっぷり浸かる時は先になります。次回へ。