14・15年次には大和徳洲会病院形成外科部長として、一応北里大学形成外科医局在籍の形で出向していました。そこでの話題として、臨床研修制度への方針作りを手伝いました。また臨床面では他科の医師とのコラボもしてみて楽しかったし、違う出自の医師との交流は医師としての人生を豊かにしてくれました。
ところで眼瞼形成術の臨床経験は学会活動にも役立ちました。父との交流にもです。JSASでの活動はこの年が最高潮でした。預かっていたを十仁札幌院を辞めても、JSASへのスタンス移動は継続していました。日本美容外科医師会でのクーデターはその翌年のことでした。その辺りから再開します。さらにアルバイト人生は、教授も巻き込み進行します。銀座美容外科で非常勤での診療も継続していましたが、父も体力が落ちて来たので、継承
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美容医療の神髄-歴史秘話第72話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その48”「相模原市から隣の大和市へ編1:美容外科学」
その後私の14~15年次の大和徳洲会病院での形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。
大和徳洲会病院は200床に満たない病院ですが、九州の離島出身で関西を発祥とする徳洲会病院グループが関東に進出する際に茅ヶ崎、鎌倉の次に開設したアクティブな施設です。さらに三院はグループ化して、自前の医師をやりくりしたり、研修システム(公的研修制度では無い。)の下で新人医師から育てていく為の施設として、若い医師から上級の医師まで揃えていました。
大和徳洲会病院の院長はグループ内で育ったベテランで、私が茅ヶ崎に出向していた際には鎌倉に居て、私とも顔見知りの医師でした。その年になぜ形成外科を開設する事になったかは不明ですが、地域でニーズはあったのでしょ
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上口唇短縮術の症例経過です。やりすぎか?。でも悦んでいます!。口周りの説明も。
口唇短縮術の症例の経過の画像を一通提示しますが、症例の評価はまだまだ完成ではありません。
このところ上口唇(白唇部)を短くしたい患者さんの来院が増加しています。このブログを見て来院する人が多く、経過が良好で(傷跡が目立たなくなる。)詳しい内容が説明してある為に安心だという患者さんの声を聴きます。ただしこの手術は経過が長い。しかも傷が見える手術ですから、すごい絵になります。今回は手術当日と1週間後を画像提示しますが、苦手な人もいるかと思い、途中の画像は縮小し、拡大写真は最下段に載せます。怖がりの人は、画像を見ないで読むだけにしてください。なお今回はその後に詳しい解説を載せます。濃い内容です。
症例は30歳、女性。USAの白人と日本人のハーフでタレントさん。白人の要素として、顔面が縦
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黒目整形セットで大人の一歩を踏み出しましょう!
黒目整形セットの症例が続いています。まず術前の写真を提示します。
今回の症例は18歳、女性。高校卒業前の若年者です。大学進学は決まっていますから、このチャンスに眼瞼形成術を希望された患者さんです。上に提示した画像2枚はどちらも術前です。左画像の様に髪を下して眉と眼瞼が見えないようにしています。右画像の様に髪をよけてもらうと眉の位置が見えます。開瞼時は常に前頭筋が反射運動で収縮して、眉毛を吊り上げています。この点も重要です。
まずは上に術直後の画像と術翌日の画像を載せます。眉の位置が下がりました。翌日の方が腫脹が亢進しています。これは常識です。48時間までは浸出期といって、手術の侵襲に対して反応して体内から出血と共に化学物質が出てきて血管透過性が亢進するために、水分
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美容医療の神髄-歴史秘話第71話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その47”「相模原から全国へ編3:美容外科学」
その後私の14~15年次の形成外科医生活と、美容外科のアルバイト生活。銀座美容外科医院の行く末について書き始めます。
その前に、私の美容形成外科医として13年次については濃厚な時を過ごしました。もう一度反芻します。
基礎研究に専従して博士号(医学)の取得までこぎ着けました。そもそもUc教授が就任したのは、1997年9月、平成9年、私が38歳になり11年次の途中でした。当時私は茅ヶ崎徳洲会形成外科に部長として2回めの赴任をしましたが、私の赴任直後にまだ教授に就任する前のUc助教授が挨拶に来て、院長に「このたび教授に選ばれました。今後は私の下でこの者が働きます。即きましては、受託研究費をお願いしたいと思います。この者は院長先生にも私淑しておりますから、今後とも宜しくと言う意味です。」
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