2015 . 10 . 29

美容医療の神髄26-歴史的経緯第26話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その3

2年次は昭和63年6月から平成元年5月まで、日比谷病院で一般外科での研修を受けます。東京都港区内幸町というところにあり帝国ホテルのすぐ横のあたりで日比谷公園の向かい側です。都会のど真ん中です。東京都の救急指定病院第一号だそうで、由緒ある病院です。都心には場所がないから、大きな病院が少ないのですが、逆に言えば人の多いところなので、患者さんは少なくない訳です。ビル化していて6回建てなのに約100床しかないのですが、一般外科と内科の医師が合わせて7人も常勤しています。 当時のF院長は私の父と同級生ですが、出征していたので年齢は5歳上でした。M外科部長も慶応の外科出身で、父によると鬼軍曹と呼ばれていたほど厳しい先生で、手術も上手だったと記憶に残っていたそうです。もう一人の外科医は慈恵医大出身で
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2015 . 10 . 23

美容医療の神髄25-歴史的経緯第25話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その2

こうして思い返すと、6年目までの研修時代に何をしたのかといえば、医師としての成長は言うまでもでもないのですが、形成外科診療以外には目もくれていなかったかも知れません。まあ若い医者っていうのはそんなものでしょう。もっともプライベートがゼロではなく、特に、2年目に東京の日比谷病院にローテーションした1年間は、時間が取れたようです。 その前に1年目に何をしたのか?。新人医師は、専門的な医療を学ぶ前に、医師としての最低限のノウハウを身に付けなければなりません。 北里大学形成外科は2チームに分かれていて、私の入ったA teamには、1年次二人、2年次一人、3年次一人、7年次(チーフ)が居て、その上に手の外科と美容外科を専門とするする助教授、腫瘍や再建を専門とする、のちに教授になる講師がスタ
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2015 . 10 . 22

美容医療の神髄24-歴史的経緯第24話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その1

考えてみたら、前々回位から自分史がウエイトを占めていますが、6年間の研修時代は美容外科診療のウエイトが少ないのでそうなっています。その後6年目からまた、増えてきます。その前後にも、いくつかのトピックスがあります。1993年の日本美容医療協会の発足。対抗して、日本美容医師会の発足と、私のJSASへの加入。父が開催したJSAS 等々・・。 その前に北里大学形成外科医局での研修医時代を思い出して、もう一度プログラムを説明するところに戻ります。 その前に医局とは何かといいますと、要するに各科の集団ですが、大学病院の医局の責務としては教育、臨床、研究の三本立てがあります。ただしその結果、医局は第一に人事権を持っています。通常雇用者というのは、会社ですし、病院という法人ですよね。確かに病院は
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2015 . 10 . 15

美容医療の神髄23-歴史的経緯第23話- ”口頭伝承話”その23

実際の形成外科医養成の研修プログラムは、大学によりかなり違うようですが、研修の目的は学会の認定する専門医を取得することにあるといっても過言ではありません。科によりそのウェイトに差があるとは思いますし、当時は専門医制度がまだ整備されていませんでした。 昨今の医療に対する国民の要請に答えるため、診療水準を専門医制度が証明し、それを広報できるようになります。またUSAによるTPAに関連した政策介入により、専門医の国家資格化が要請されているようです。現在各科の専門医は、厚労省の管轄する機構で制度化と審査が進行しています。そう言えば、前回記載しましたが、日本の近代医学は戦後GHQが導入したのでした。当時はベビーブームと高度成長期への胎動の下で医師不足で、とにかく医者を産めよ増やせよの時代だったの
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2015 . 10 . 9

美容医療の神髄22-歴史的経緯第22話- ”口頭伝承話”その22

1年目の医局員としての生活は、まだまだ続きます。 こうして6月からの新人医局員生活も5ヶ月が過ぎる頃には、形成外科路は何かを、知性的ではなく感覚的には判る様になります。何を感じたかといいますと、第一に美しい医療をモットーとする。そして病気や怪我を治す機会ばかりですが、美しい仕上がりを生命、機能と同列に重要視する。そんな感覚が形成外科の姿勢として身に付きつつありました。 ところがこうして12月に入る頃には、4人入った新人医局員が徐々に出向病院に移動して行き、大学病院には私一人となってしまいました。そうなると、丁稚奉公はキツさを増します。朝の採血や注射は病棟40人分を、時には早朝6時前からこなし、回診やカンファレンスでの準備やカルテ運び等の肉体労働もこなします。今でいうブラック雇用み
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