2015 . 10 . 30

眼瞼形成術の切開法は、美容形成外科専門医で受けましょう!。3か月で、完成としましょうか?。

3ヶ月前に眼瞼下垂手術=切開法=一重瞼または奥二重という先天性皮膚性眼瞼下垂症に対する切開法手術を行った患者さんが経過診察に来院されました。 上左図が術前です。二重まぶたが狭い。前頭筋に力が入っていて眉が挙がっています。上右図が術後1週間です。さすがに腫れています。止めた点にカクカクが見えます。切痕といいます。 上左図が1ヶ月ですが、なんかまだすっきりしない。挙がっているのだけど開瞼が物足りなく、クリクリしていない。上右図が3ヶ月で今回いただいた画像です。なんとか、いい感じにみえます。 これまでにも、本症例については私としても満点を出せませんでした。内側方面の開瞼が外側に比べ足りないのが,見えるのです。 一重瞼にしても,奥二重にしても,二重まぶたでも,
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2015 . 10 . 30

美容医療の神髄27-歴史的経緯第27話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その4

2年次の続きとなります。東京都心に勤めて銀座は近いので、二週に一度くらいは銀座美容外科に寄りました。二ヶ月に1階くらいはゴルフにも付き合いました。だからこの1年間は父と話す機会も多かったと思います。 当時の美容医療の情勢としては、昭和63年ですから美容外科の標榜から10年を経過していたので、裏の存在だった美容整形から列記とした診療科目になって、市民に認知されていった頃です。 このころ、父との会話のキーワードは二つ。チェーン店系の勃興と新幹線整形。相対する方向性の中で情報交換し、方針を模索していました。 影の存在どころか、金儲け主義でやくざ医師とまで言われた美容整形だし、もちろん美容整形外科というのは無いので潜りの広告しかできなかった。昭和53年の美容外科標榜科目認可を契機に
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2015 . 10 . 29

美容医療の神髄26-歴史的経緯第26話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その3

2年次は昭和63年6月から平成元年5月まで、日比谷病院で一般外科での研修を受けます。東京都港区内幸町というところにあり帝国ホテルのすぐ横のあたりで日比谷公園の向かい側です。都会のど真ん中です。東京都の救急指定病院第一号だそうで、由緒ある病院です。都心には場所がないから、大きな病院が少ないのですが、逆に言えば人の多いところなので、患者さんは少なくない訳です。ビル化していて6回建てなのに約100床しかないのですが、一般外科と内科の医師が合わせて7人も常勤しています。 当時のF院長は私の父と同級生ですが、出征していたので年齢は5歳上でした。M外科部長も慶応の外科出身で、父によると鬼軍曹と呼ばれていたほど厳しい先生で、手術も上手だったと記憶に残っていたそうです。もう一人の外科医は慈恵医大出身で
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2015 . 10 . 23

美容医療の神髄25-歴史的経緯第25話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その2

こうして思い返すと、6年目までの研修時代に何をしたのかといえば、医師としての成長は言うまでもでもないのですが、形成外科診療以外には目もくれていなかったかも知れません。まあ若い医者っていうのはそんなものでしょう。もっともプライベートがゼロではなく、特に、2年目に東京の日比谷病院にローテーションした1年間は、時間が取れたようです。 その前に1年目に何をしたのか?。新人医師は、専門的な医療を学ぶ前に、医師としての最低限のノウハウを身に付けなければなりません。 北里大学形成外科は2チームに分かれていて、私の入ったA teamには、1年次二人、2年次一人、3年次一人、7年次(チーフ)が居て、その上に手の外科と美容外科を専門とするする助教授、腫瘍や再建を専門とする、のちに教授になる講師がスタ
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2015 . 10 . 22

美容医療の神髄24-歴史的経緯第24話- ”口頭伝承から、自分史話へ”その1

考えてみたら、前々回位から自分史がウエイトを占めていますが、6年間の研修時代は美容外科診療のウエイトが少ないのでそうなっています。その後6年目からまた、増えてきます。その前後にも、いくつかのトピックスがあります。1993年の日本美容医療協会の発足。対抗して、日本美容医師会の発足と、私のJSASへの加入。父が開催したJSAS 等々・・。 その前に北里大学形成外科医局での研修医時代を思い出して、もう一度プログラムを説明するところに戻ります。 その前に医局とは何かといいますと、要するに各科の集団ですが、大学病院の医局の責務としては教育、臨床、研究の三本立てがあります。ただしその結果、医局は第一に人事権を持っています。通常雇用者というのは、会社ですし、病院という法人ですよね。確かに病院は
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