2013 . 7 . 25

顔面のやや大きなほくろ

その前に!2週間前に手術した:重い懸垂型ピアスによって後天性耳垂裂となり、ピアス孔を作製しながら、修復した2症例のうちのお一人が来院されました。キズが落ち着いたので、懸垂型ピアスを入れてみました。トンネルがしっかりしているので、今回は伸びないでしょう。 さて本日の美容医療の症例は?   眉間というか右眉頭と目頭の間のほくろです。色は淡いのですが、毛が生えていてサイズは8×6mm、今も増大傾向だそうです。レーザーで毛根まで削ると、跡が目立つし、切除して、縫い縮めると、眉や瞼が変形してしまう可能性があります。近くの皮膚科にかかったら、悪性の可能性は低いし、取らなくていいと言われたそうです。私は言いました。「そりゃーまあ―、皮膚科医は手術を得意としない人が多く、ましてや顔で、変形をきた
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2013 . 7 . 21

美容医療の神髄Ⅴ-歴史的経緯第三話- ”口頭伝承話”その1

昭和30年代に入り、その頃巷では、高度経済成長期に乗じて、贅沢医療としての美容整形開業医は、雨後の竹の子のように、増加していきます。昭和36年に父が銀座で開業した時点では、都内に三十院は下らなかったそうです。すぐに、山手線の各駅には美容外科が存在していたそうです。また、大阪では戦前からの外科病院である、白壁病院が美容整形を始めました。 美容整形を開業する医師は他科からの転向しかありませんでした。もちろん多くは、外科系からです。一例として、父は胸部外科医として、北里病院に勤めていました。実はそこに二本の伏線があります。当時は結核患者が多く、胸部外科では、胸郭形成術という肺をつぶす手術法が定番でした。すると、胸がぺちゃんこにへこみます。そこで、当時開発されたばかりの、シリコンジェル等を注入
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2013 . 7 . 19

美容外科の神髄Ⅳ-歴史的経緯第二話-

戦後日本の美容医療の先行者は、もちろん十仁病院でした。十仁医院は戦前からあり。先代(現在の院長:梅沢文彦の父)の梅沢文雄医師は。上野で開業していました。美容医療というより、男性器治療から入ったようです。戦後新橋で再建した十仁病院は、美容整形を前面に打ち出しました。戦後米軍とともに、医師団も日本に視察、医療指導のため、来日します。ある有名な形成外科医は、日本でのPlastic Surgery は十仁が最高峰だと論文に記しています。 当時はまだGHQの占領下で、都心にも米兵がゴロゴロいた訳で、経済的に欠乏していた日本人女性の中には、米兵にぶら下がって食べさせてもらう者たちがいました。そこで、米兵に相手にしてもらうためには、「バターくさい容姿=外人風の顔。」にする方が優位なのでした。GHQ本
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2013 . 7 . 11

ピアスで耳たぶが割れた人を治す =後天性耳垂裂に対する手術法=

またまた話が飛んでしまいますが、なぜか私の発明した?手術を行う患者さんが続いたので、提示してみたいと思います。2000年(平成12年)に日本美容外科学会(JSAPS)で発表し、論文にも書いた方法です。 「後天性耳垂裂に対する手術法」副題:懸垂型ピアスにより慢性的に生じた耳垂裂をピアス孔を同時に作成しながら修復する方法。よくある誰それ式何々法とは違い、本当にオリジナルな手術法です。 欧米では懸垂型ピアス,dangling pierceを着けることが多いのです。耳飾りは有史以来の欧米での文化です。ですから、欧米では、耳垂(耳たぶ)が重さに耐えきれずに、ピアス孔が徐々に伸びてしまい、しまいには割れてしまう=後天性耳垂裂が多いのです。したがって、修復手術法も多く報告されています。
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2013 . 7 . 5

美容医療の神髄Ⅲ-歴史的経緯-

話しがあっちこっちに跳んでしまって混乱させてしまっているかもしれませんが、お許しください。ブログですから、徒然なるままに書きます。 私事、生涯一美容外科医を名乗る森川一彦は、美容外科医である父の下で生を得て54年、医師としては26年に過ぎません。こんな私が歴史を語るのは僭越かもしれませんが、私達親子の経緯も含めて、述べていきます。 日本での形成外科、美容整形の歴史は戦後からといえます。欧米では20世紀の初めからです。その前に現代では、形成外科、美容外科(美容整形)、最近では美容皮膚科、美容内科で対応する美容医療という概念は、いつからあるのでしょう。 三国志には、一重瞼を二重瞼にした女性の記述があります。これまで述べた東アジア人の特徴ですね。これは立派な美容医療です。同時期に
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