2018 . 5 . 9

美容医療の神髄-歴史秘話第109話-”口頭伝承”:美容整形屋と美容形成外科医”その84”「地方都市27:美容外科医は辛いよ!」

平成14年、2002年。私の医師歴16年(現在30年次です。)です。この頃は美容外科の世界でも今に至る激戦が続いていました。1992年(これより10年前)に日本美容医療協会が発足した時から非形成外科医の美容整形屋と形成外科出身の美容外科医の対抗心が表面化してきましたが、私と父はこの頃首を突っ込んでいました。そりゃ~そうだ。父は非形成外科で私は形成外科医ですからね。

その後、昭和50年代にT先生がチェーン店(新幹線整形と呼んでいました。)を展開したころから、個人開業の形成外科系美容外科医と非形成外科医の美容整形屋(父を含む)がまとまって、チェーン店系の非形成外科医が対立する様に構図が置き換わったのです。

何回も書いてきましたが、美容外科医は形成外科出身者と形成外科以外の科目しか修練していない医師の二群が存在します。先進国でこんなふざけた医療方針を取っているのは日本だけです。何故なら医師会がムラ社会だからです。自由標榜を謳います。他科でもそうです。本来は形成外科の修練を終えてから、さらに美容外科の症例を決めた数を経験し、筆記試験を通って専門医を取得した医師だけが、美容外科を標榜して開業できるように制度を作るべきです。これを特殊標榜といいますが、本邦では麻酔科だけが制度づけられています。最低200例の経験がないと標榜医を得られません。日本では他の科目はどれも、自由標榜といって研修の有無を問いません。医師国家試験に通り医師の資格を得たら、開業時に専門的な知識を問わずに科目名を掲げられます。病院勤務時は経歴を見るので、研修歴を問います。

私はこれまで何回か書いてきましたが、判りやすく言えば、昨日まで麻酔科や内科を研修していた医者が今日から美容外科を標榜して開業しても違法性は訴求されません。つまり国民からすれば全く危険な医療行政が放置されて来た訳です。これはどの科目にも言えますよ。やっと数年前から制度が作られ始めました。でもまだ本格稼働していません。

従来全世界的に、美容医療は美容外科と形成外科に科目名を使い分けていません。形態と機能の改善を配分して、医療的に改善を図るという目的は一つだからです。だから顔面を始めとして見える部位の見た目の改善を科目はUSAでは美容形成外科,Aesthtic Plastic Surgery と称されます。最低6年は病院で形成外科の研修をして、専門医,board の資格,certified を得ないと開業出来ません。日本は世界的に見て、制度整備が最も遅れています。

話しは飛んで、これも歴史に書きましたが、欧米では形成外科的な医療は、第一次世界大戦(WWⅠ)時に発達しました。それまでの戦争は職業兵が戦闘要員だったに対して、WWⅠは総力戦となり兵役で国民を戦わせたので、傷病兵を社会復帰させる必要性が生じたからです。そりゃあそうです。傷病兵を形態的に出来るだけ復する様にしなければ、国家に反逆しますよね。それに傷病兵を形態的に治さないで福祉に廻して社会復帰させないでいては、国家としても経済的政治的運営ができませんよね。これは民主主義国家の宿命です。

WWⅠ時は塹壕戦でした。掘りみたいな溝を掘って隠れて敵を迎え撃つ戦法です。顔を出した瞬間に弾丸や爆弾が飛んできて、顔面の傷病が多発しました。頭蓋内まで損傷すれば、心肺停止(死亡)に到るのですが、顔面に外傷を負ってもヘルメットで命は助かる。でも顔面が変形する外傷が多発しました。そこでUKの王室(主権者ですからせんそう主宰者です。)が形成外科的医療に助成しました。有名なギリースを始めとした名医が輩出しました。その後USAにもヨーロッパ全体にも普及しました。第二次世界大戦時(WWⅡ)時には多くの形態的損傷を受けた傷病兵が社会復帰できる様になりました。欧米では形成外科医療がこのように発展していき、彼らが美容外科的医療にも携わる様になりましたから、知識と技術が向上したのです。

日本ではどうだったでしょうか?。WWⅠには総力戦としては参戦してませんから、形成外科的な医療の発展しません。そもそも天皇制国家では個人の見てくれなど相手にされません。WWⅡの戦前に、極一部の医師が美容整形を行っていました。実は戦前には欧米でこの頃発祥した整形外科という科目は、医学的に取り入れられていない(大学病院に教室が無い。)為にごっちゃでしたから、読んで字の如く美容目的に形を整えるのをこう呼んだのです。現在の整形外科的医療は主に接骨医と称されていました。

WWⅡの敗戦後、主にUSA軍が占領しましたが、国内の大病院の多くが米軍病院として接収されました。USA軍は戦争の後背地または兵站基地として日本を占領し続けたので、朝鮮戦争等の戦傷者がどんどん運ばれます。上に記したように、形成外科医が大活躍します。この際そちらでインターン研修をした日本の若い医師達が形成外科医療なるものに初めて触れることになるのです。その後昭和30代までにUSAに留学した医師が、形成外科医療を研鑽しました。

上に述べた様に美容整形なるものは、戦前から眼科医(重瞼術や目頭切開までも!)や耳鼻科医(象牙プロテーシス!による隆鼻術等)によって試行され萌芽しつつありましたが、戦後の高度成長期に向かって隆盛します。あくまでもビジネスで医学的な検討はされませんでした。戦後すぐにUSAの口唇裂の手術法に名を残す有名な医師が、十仁病院を訪れて教育した際の論文を読んだことがあります。しかしこうして美容整形なるものが高度成長期の経済力上昇に乗って興隆しました。彼らは上に書いたように他科からの転向者でした。形成外科の素養は身に着けていません。因みに父は胸部外科出身です。十仁の院長は整形外科出身です。当時形成外科は標榜科目ではありません。

医師は国家試験に合格するまでに、形成外科の解剖や機能の知識を学びません。顔の体表付近の医療は生命に関わることは少なく、また美容的形態を重視するのは医療の分野にそぐわないとの古式蒼然とした意識があったからです。今では滅多に聴きませんが、つい25年前までは「親にもらった顔をいじるのは親不孝者だ!」などという間違った考えが横行していました。いわゆる儒教思想です。念のために言っておくと、例えば眼瞼の手術は開瞼機能を向上させる目的が併存します。

逆に美容整形なるものはビジネスでした。ですから、医学的な検討はされず、学会もありません。大抵の医師は企業秘密として他の医師に教えませんし明かしません。悪知恵ですが仕方なく、或る医者は自分の彼女をライバル医に素性を明かさずに送って隆鼻術を受けさせて、帰って来た彼女の鼻からシリコンプロテーシスを抜いて、参考にしてみたそうです。父に聴いた話しですが、父もやったみたいです?。

久し振りに歴史編を書いたら脱線しまくりました。何を言いたいのかというと、形成外科出身の美容外科医と他科出身の美容整形屋の質は格段に差があります。この頃非形成外科医の父は美容整形出身でも形成外科の世界にも人脈を拡げました。もちろん私の為か?、私のせい?ですが、日本美容医療協会の理事に立候補して自分で選挙運動して当選して形成外科出身の美容外科医の中で一人頑張っていたからです。この頃が最後の一花で元気に動いていました。次回その話しを続けます。